「純粋派ワグネリアン」の主張に関する考察
1幕全体が壮大なタペストリーのように絶え間なく紡がれていくワグナーの音楽を、ある部分だけ抜粋して聴くというのには確かに違和感があるし、全部聴きたいというストレスがないと言ったら嘘になる。実際、ソーシャルネットワーク上でも半ば冗談で「抜粋だけのコンサートは異端だ」とする「純粋派」ワグネリアンの主張が見られた。
しかし、演奏を聴きながら、このような「純粋派」の言い分に大きな疑問がわいた。最初の『ローエングリンの前奏曲』は、知らないうちにどこからか生まれた音が聴く人を包み込み、最後にはもと来たところへ戻ってゆくという、うっとりとする演奏だった。だが、演奏している楽器はモダン楽器だ。しかしこの曲が作曲された19世紀半ばは、まだ金属弦はなく、管楽器は改良が重ねられている最中で、現在のようなキーも多くなかった。ワグナーが思い描いていた響きや音色は、私たちが聴くものとは全く異なっていたはずだ。それなのに、「純粋派」でもこの点に触れる人は少ない。
モダン楽器は音がきらびやかで音量もあり、いや増して熱狂度を上げてくれる。歌手が声量や持続力を競うのにももってこいだ。現代にワグナーを聴く人々は、どれだけオケを凌駕できるかを一つの重要な基準として、ワグナー歌いの器量を判断する。しかし、今、19世紀半ばの歌手たちを聴いたら、おそらく現代の尺度とは全く違った「パフォーマンス」に驚くに違いない。どんな響きだったかは、今となっては想像するしかないが、「純粋派」を名乗るならば、音色や響きという点も重要な判断基準に掲げるべきではないだろうか。
そんなことを真っ先に思い浮かべたのは、同じ日の午後に、フランソワ=グザヴィエ・ロト François-Xavier Roth がレ・シエクル Les Siècles を指揮したストラヴィンスキーのバレエ音楽他の録音を聴いていたからかもしれない。このCDは最近再リリースされたもので、ライナーノーツにあるインタビューではロトは、『春の祭典』について、それまで一般的に演奏されていたバージョンに比べ、作曲当時の楽譜に基づくこの録音の響きにどんな違いがあるかを述べている。また、バロック音楽をバロックヴァイオリンで演奏すると、モダン楽器では至極困難な技巧的な部分が比較的たやすく弾ける、という話とも共鳴する部分があるだろう。このようなアプローチはワグナーにも当てはまるのではないだろうか。もしかしたら、当時の歌手には、今ほどに超人的な技量や声量を要求していなかったのかもしれない。
そんなことを考えてゆくと、今後、ワグナー作品も、当時の楽器で演奏することが多く行われるようになることを期待するばかりだ。