5月11日から徐々に解除されている外出制限は、6月2日からカフェのテラス、公園などが再開し、これまで100km以内の移動制限もなくなった。
その前夜、6月1日月曜日19時、アダム・ラルーム Adam Laloum が登録制の小規模のコンサートを開いた。彼にとって外出制限が発令されてから初めての公開演奏だ。
ラルームはドイツものを得意とし、透き通るような音と詩情あふれる演奏で幅広いファンを持つフランスのピアニスト。どの作品であれ、楽譜に対する真摯な取り組みはピアノ愛好家を常に魅了している。今年2月に披露したシャンゼリゼ劇場でのシューベルトの最後の3曲のソナタは逸品だった。
この夜のプログラムはブラームスのソナタ第1番ヘ長調op5とシューベルトのソナタ変ロ短調D960。ブラームスは初めて聴衆の前で演奏するということで、フランス語でいう「ロダージュ」rodage(演奏家が作品を初めて舞台にかける前に本番とほとんど同じ条件で通し演奏すること。通しリハーサルというよりもプレ演奏会と言った方が適当かもしれない)の様相を帯びたコンサートだ。聴衆は、外出制限で定められた人数に見合うように事前に登録した人で、企画開催者や演奏家の友人・知り合いや、ソーシャルネットワークで開催を知ったファンなど。
場所は、パリ9区のノートルダム・ド・ラ・ロレット教会にほど近い、19世紀の町工場だった建物。道に面するファサードの佇まいはごくありふれていて、まさか奥にこんなスペースがあるとは全く想像できない。建物に入って短い廊下の向こうにあるコードを押して2番目の扉を開けると、小さな中庭に出る。その奥にコンサート会場となっている棟がある。ガラス張りの鋳鉄の枠の扉の合間から私たちが来たのを見て、コンサートを企画したイタイ・ジェドリン Itay Jedlin*が中から扉を開けてくれた。1週間前に行ったクラヴサンのジャン=リュック・オーのコンサートを企画したのも彼だった。
かつての工場の内部には建築の装飾用の資材などが置かれ、壁際には部品などを整理する棚もある。そのほぼ中央に1900年製のクリーゲルシュタインというセミグランドピアノが置いてある。パリのピアノ会社だということだから、フランス語風に「クリエジェルスタン」とでも読むのだろうか。
19時を少し過ぎた頃、ジェドリンが簡単な挨拶をし、ピアノは演奏会用の楽器ではないこと、演奏後に「友好のワイン」が振舞われること(フランスではこういったプライベートな場所では必ずワインが出てくる)と、机の上に投げ専用の帽子を置いてあるのでよろしく、と伝える。そのあとラルームが出てきた。ピアノの前で挨拶がわりにプログラムをアナウンス。2曲とも大曲だが最初のブラームスは公開の場では初めての演奏なので暖かく受け入れて欲しいと伝える。知り合いが多いということもあるのだろうか、和やかな雰囲気だ。
最初の和音が鳴る。すでに少々調子が狂っており、ピアノがどれだけ「疲れて」いるかがすぐにわかる。音色は19世紀末に特有のもので、音域によって響きが全く違う。高音部ではいくつかの鍵盤のメカニズムがうまく機能していないような、スカスカという音がする。別の鍵盤はフェルト(または皮)がすり減っているのだろう、少々耳にくる金属音が出る。しかし音そのものには玉を転がすような独特の味わいがある。逆に中音部と低音部はなかなか厚みが出ず、重厚な和音など、まるで消音ペダルを半分踏んでいるような布で包まれたタイプの音だ。そんなピアノではあるが、ラルームの指は、魔法にかかったように叙情的なメロディを奏でるから驚きだ。特に右手の旋律は美しく、流れるような音楽性が次から次へと溢れ出てくる。最初期の作品とはいえ、このソナタではブラームスが好んだ厚みのある和音がすでに全体を通して聞かれるが、その和音がピアノの外までよく響かない。はじめのうちはこれに少々物足りなさを感じるが、次第にそれに慣れてくると耳が自然と微調整を行なって響きを想像の上で再構成するので、聴かれるのは修正された音で、それほど楽器の欠点が気にならなくなるから不思議だ。こういう体験は、現在のようにスタンダード化されていない昔のピアノ(ピアノに限らず他の楽器もそうだが)での演奏を聴くときにしばしば遭遇する。
「暖かく受け入れて」と言ったラルームだが、演奏には染み渡る深みがあり、すでに非常に完成度の高いものとなっている。彼の一番の長所はまさに奥深さと美しい音色だが、それが存分に発揮された演奏だった。
続いてのシューベルトは、彼が得意とする作曲家の一人。演奏では、シューベルト独特の、始めも終わりもないかのように延々と続く時間感覚に事前に入り込むことができる。動的な中に静けさがあり、静止したかのような世界であっても動きが絶えることがない。厚い雲からさす微かな光に一縷の望みを託すかのような緩徐楽章は、なんともいえない絶望感に何か超越したものがあり、深く心に残る。彼の世代(1987年生まれ)でシューベルトをここまで表現できるピアニストは稀であろう。
アンコールなしのコンサートの後は、予告通り赤ワインを囲んでの歓談となった。私はこの場所の主である建築家のフランソワさんの話を聞いた。数年前から主にバロック音楽のプライベートコンサートを開き、現在は「フライング・ミュージックFlying Musick」と題した移動ホールの計画を進めているという。詳しい話を伺うため近日中に再会を約束した。アダム・ラルームは21時からの2回目のコンサートのためにしばし休憩。第2セッションに集ってきた人々の中には、馴染みの顔も見える。やがて姿を現したラルームとこの夜についての記事に関して少々言葉を交わしてから場を後にした。
プログラム
ブラームス ピアノソナタ第1番ヘ長調 op5
シューベルト ピアノソナタ変ロ短調 D960
Adam Laloum, piano
2020年6月1日19時 La Matrice
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アダム・ラルームのシューベルトを堪能したければ、今年2月にアルモニア・ムンディからリリースされた2曲のソナタを収めたCDをお勧めする。深みと叙情性が見事に溶け合った音楽性が魅力の一枚。
*イタイ・ジェドリン氏は、古楽音楽祭で欧州に知られた(欧州古楽ネットワークREMAの本拠地でもある)アンブロネーAmbronay音楽祭で、1731年に初演され、唯一知られたコピーが第二次大戦で戦火に消えたバッハの《マルコ受難曲》(最近サンクトペテルブルグで発見されたテクストによると、1744年に初演版に改編が加えられていたことがわかった)を、このテクストをもとに再現する試みを行い、主催するル・コンセール・エトランジェLe Concert étrangerを指揮して演奏し、一躍注目を浴びた音楽家でもある。
文中敬称略
Photos © Victoria Okada