19世紀、印象派の画家たちが好んで滞在したノルマンディー地方。特に港町オンフルールとその周辺は、数多くの名画が生まれた地として知られている。港を見下ろす丘に続く道は、かつて画家たちがキャンバスと共に歩いた道だ。その道脇にたたずむようにある、昔ながらの茅葺き屋根の古い家が目に留まる。門をくぐると目に飛び込んでくるのは、ノルマンディ特有の「コロンバージュ」造りの豪奢な建物。その歴史深い佇まいが、今日では5つ星の高級リゾートホテルとして新たな命を吹き込まれている「サン・シメオン農場 Ferme Saint Siméon」だ。印象派誕生150年を祝う「ノルマンディ印象派フェスティバル Festiaval Normandie Impressionniste」の一環として、7月半ばにここで1日を過ごした。
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印象派の画家たちの「民宿」
サン・シメオン農場 Ferme Saint Siméon は、その名が示す通り、昔は農場だった。資料には、ここで飼われていた動物たちの種類や頭数が記録されており、広報担当者は画家たちが書き残した手紙の中にも鶏などの家畜についての記述があると語る。質素な農場の一角で、女将さんが、作品制作に励む画家たちを迎え、シンプルな食事を振る舞い、必要ならば寝床も用意していた。まさに、素朴な民宿のような場所だったのだ。彼女が振る舞っていた飾り気のない料理は、ここを訪れた芸術家たちの記憶の中に刻まれており、手紙やスケッチの片隅にその様子が記録されている。今年、印象派誕生から150年という節目を迎えたことを記念し、当時の画家たちが口にしていたであろう料理が再現された。それが「トゥータン母さんのメニュー」(Menu de la Mère Toutain)。この特別なメニューは、画家たちの食卓を再現しただけでなく、彼らが過ごしたひとときを現代に蘇らせる試みでもある。
画家たちに思いを馳せるシンプルメニュー
この再現されたシンプルながら味わい深いメニューは、茅葺き屋根の農場建物にあるビストロ「ラ・ブーカーヌ La Boucane」で楽しむことができる。シンプルとはいえ、鯖、小エビ、ジャガイモの前菜から、メインの鶏肉料理、ノルマンディ産チーズ、そしてデザートまでのしっかりとしたコース仕立てになっている。月曜から金曜のランチタイムにしか提供されないという特別感も、訪れる人々を魅了している。当初は印象派150周年を祝う期間限定メニューとして登場したが、その人気の高さから継続して提供されることになった。歴史的なロケーションで、画家たちの姿に思いを馳せながら、彼らが味わったかもしれない料理を堪能するという贅沢なひととき。芸術を愛する人々にとって、このメニューは一度は体験してみたい特別な食事となることだろう。
馬車で巡るオンフルールの旧市街
「サン・シメオン農場」では、食事以外にもこの地ならではの特別な体験を楽しむことができる。その一つが、馬車に乗ってオンフルールの旧市街を一周するツアーだ。このツアーで手綱を握るのは、2019年、2021年、2023年に国内チャンピオンの称号を3度も獲得した馭者、ブノワ・ファラン(Benoît Farain)氏。彼の熟練した技術により、私たちは歴史が息づく街を優雅に巡った。ツアー終了後、彼が馬車を定位置に戻す際、「もっと右」「左、左」「もう少し脇に」などと、まるで子供か友人に話しかけるように指示を出している。その言葉に見事に従う馬たちには驚きだ。氏によると、こうした細やかな指示を理解させるためには多くの時間と忍耐が必要だが、続けていれば馬たちはきちんと理解し、協力してくれるようになるという。そして、「馬たちは、馬車に人を乗せて街を闊歩するのが大好きなんですよ」と、誇らしげに話してくれた。その言葉には、馬への限りない愛情が滲み出ている。この馬車での散歩は、ただの観光手段ではなく、馬たちとの絆を感じることができる特別な「体験」として心に残るものだ。
野外での絵画制作体験
印象派の画家たちが愛したこの地で、彼らのように野外で絵を描いてみては? サン・シメオン農場では、海を望む美しい庭園が広がるテラスで、野外絵画制作を体験することができる。絵画の手法は、印象派の画家たちが好んだ手法で、下書きをせず、その場で感じた印象をキャンバスに直接描いていくスタイル。使用するのは油彩ではなく、グワッシュ絵の具。グワッシュは油絵に似た効果を出しつつ、速乾性があり準備も簡単なので、初心者でも気軽に楽しむことができるのだ。私たちのグループは15人ほどだったが、同じ風景を目の前にしながらも、皆思い思いのモチーフとイマジネーションでそれぞれの個性が光る全く異なる絵が出来上がった。同じ風景を前にしても面白いくらい多彩な絵ができるのは、何よりもまず個性を尊重するフランスという国民性の表れだろうか。オンフルールの美しい自然を背景に、自分だけのアート作品を生み出すこの体験は、まるで印象派の画家たちと時を共有するかのような、贅沢なひとときだ。
歴史を纏うサン・シメオン農場のホテル
サン・シメオン農場の5つ星ホテルは、単なる宿泊施設ではなく、歴史と芸術が溶け合った特別な空間だ。主に二つの建物から構成されており、そのうちの一つは、かつて印象派の画家たちが滞在した場所を改装したもの。特に、クロード・モネが何度も滞在した部屋として知られる22番の部屋は数ヶ月先まで予約が詰まっているほどの人気を誇っている。この部屋は、広さこそ控えめだが、調度品やカーテンなどは当時のスタイルに忠実に作られており、オリジナル感溢れる雰囲気が漂っている。
この建物の他の部屋も、それぞれ異なるインテリアデザインが施され、各部屋ごとに違った体験ができるように工夫されている。例えば、最上階にある「Suite Ciels de Seine(セーヌの空スイート)」と名付けられたプレジデンシャル・スイートは、木肌を活かしたインテリアで、自然と一体となるような安らぎの空間を提供している。それぞれの部屋は、まさに「唯一無二」の名にふさわしい贅沢なひとときを味わえるようになっているのだ。
もう一つの建物(残念ながら見学の機会はなかった)には、統一感のあるデザインである程度スタンダード化された客室が設けられている。この建物内にあるガストロノミー・レストラン「Les Impressionnistes(印象派画家)」のテーブルは全て、画家のパレットの形をしている。
拡張するサン・シメオン農場
「サン・シメオン農場」は、歴史を大切にしながらも、現代のニーズに応じた進化を続けている。最近では周辺の土地を新たに買収し、さらに規模を拡大する計画が進行中。特に、現在ある菜園を拡張し、有機栽培の野菜を自給することで、レストランの料理に一層のこだわりが加わる予定だ。庭の一角には、ノルマンディのレジデンスアーティストが創作活動に専念できるアトリエが、芸術と自然の共存を物語っている。
過去と未来を繋ぐ魔法のような空間
「サン・シメオン農場」は、単なる高級リゾート施設にとどまらず、印象派の画家たちが過ごした時間と、その精神を現代に蘇らせる、まさに「魔法のような空間」だ。ここでは、美しいノルマンディーの風景を眺めながら、馬車で街を巡り、野外で絵画を楽しむなど、日常を離れた特別な体験が待っている。また、画家たちが愛したこの地で、彼らが過ごした時間や思いを追体験できる場所でもある。これからも拡張し続ける「サン・シメオン農場」は、歴史と自然、そしてアートが織りなす独自の魅力を発信し続けることだろう。訪れる人々にとって、この場所は宿泊先である以上に、心に刻まれる忘れがたい体験を提供してくれる場所となるに違いない。
2024年7月12日
Remerciements à l’Agence Heymann Associés
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