アルシュテットの濃密なシューマン
続いてアルトシュテットが登場。普通のコンサートのようにソリストが颯爽と舞台に出てくるというのではなく、まるで学生が練習室が空いているかどうか確認してからおもむろに楽器を持って入ってくる、という感じだ。この時はまだ気づかなかったが、足は靴下だけで靴は履いていない。足が直接地面に触れることで音の感覚がよくつかめるのだろうか。無観客になってから靴を履かないで演奏する人を何人も見た。普段の練習でそうしているのだろう。
アルトシュテットの演奏は、最初に書いたように、濃い。そして奥行きがある。彼の演奏を聴きながら、太陽が雲の影を投げかける広大な原野の、オークル色の土が思い浮かんだ。その土は乾いた土ではなく、水気を含んでいて重い。重いが、水分は土地を潤わすのにちょうど必要な量で、飽和状態で溢れ出ているのでは決してない。そして土はとても密だ。シューマン40歳の円熟期に作曲されたチェロ協奏曲は、ピアノ曲に見られるほどの極端な二極性はないが、ここでも葛藤と幸福感の対比が表れている。ロマン派時代、チェロに脚光を当て、新しいアイデアをふんだんに取り入れて、それ以降のチェロ協奏曲に大きな布石を投じたオリジナリティに溢れるこの曲について、アルトシュテットは演奏後のインタビューで「書法はチェロという楽器に適応しておらず、弾くのは難しいし、不愉快でさえあるけれど、この曲は全てのチェリストにとってチャレンジの対象」(趣意)と語っている。至難を極める第3楽章は、その困難さがエネルギーに昇華されて、マチエールが驚くほど凝縮された演奏となっている。カデンツァはセンシュアルな音づくりが印象的。全曲を通してそこここで聞こえる息づかいにも魂がこもっている。それも「濃い」と感じる要素なのだろう。一方、オーケストラはチェロに比べキレがそれほど鋭くなく、もう少し明確な線が欲しかった。
演奏を終えたアルトシュテットは、舞台に出てきたときと同じような普段の風貌でシンプルに舞台裏に引っ込んでいった。演奏を始めるまでに溜め込んだ力を全て舞台に置いていったかのように。
アルトシュテットの公式サイトはこちら。