パリの国立オペラ・コミック劇場では9月28日から10月8日までレオ・ドリーブ Léo Delibes の《ラクメ Lakmé 》が上演されている。演出はローラン・ペリー。ラファエル・ピションが自らのピグマリオン(オーケストラと合唱)を指揮。主要キャストは、ロールタイトルにサビーヌ・ドヴィエルを迎え、イギリス将校ジェラルド役にフレデリック・アントゥン、ラクメの父ニラカンタ役がステファン・ドゥグー、ラクメの侍女マリカ役がアンブロワジーヌ・ブレ。プルミエ以降全日程が完売という人気で、聴衆のお目当てはなんといってもサビーヌ・ドヴィエルのラクメ。案の定、「鐘の歌」に観客は熱狂し、拍手が鳴り止まなかった。 ***** サビーヌ・ドヴィエルのラクメ サビーヌ・ドヴィエル Sabine Devieilhe は2014年に同じ劇場ですでにラクメを歌っている。この時はフランソワ=グザヴィエ・ロト François-Xavier Roth の指揮で、演出はリロ・ボール Lilo Baur。この時彼女はまだデビュー後間もない頃で、このラクメ役の大成功で一躍キャリアがひらけたといえる。2014年の彼女の歌を今でも覚えている人は多く、筆者もその一人だ)。 ドヴィエルは、クリスタルが光を受けて色彩を放ち透明な声に加え、フランス語の発音が驚くほど明快で、フレージングも音楽性に溢れている。彼女の歌唱においては、一つ一つの音に特有の役割を十分に果たしているがゆえに、どんなレパートリーでも全く違和感がない。バッハのように堅実さが求められるものから、この《ラクメ》のように技巧的な聴かせどころがあるものまで、コンスタントな歌唱が特徴だ。 今回観たのは9月30日の2回目の公演だが、ドヴィエルは28日のプルミエから絶好調で、現在彼女がコロラトゥーラソプラノとして絶頂期にいることを目の当たりにできる。このオペラの一番の聴かせどころ「鐘の歌」では、高音部で玉のように転がる音符を稀な完成度で、しかもかなりの速さで歌い上げる。かつてはマディ・メスプレ Mady Mesplé やナタリー・ドゥセ(デセイ)Natalie Dessay などがレパートリーとしていたこのアリアが、ドヴィエルによってさらに輝きを増している。 ニラカンタに新しい顔を持たせたステファン・ドゥグー 祭祀のニラカンタは、自らの権力維持のために娘のラクメを女神に仕立て上げ、彼女が外界と接触する機会を絶つ。このような人物設定は、台本からは読み取れるものの、実際の上演では、ラクメとジェラルドの悲恋の影で存在感がなくなっているのが。しかし、ステファン・ドゥグー Stéphane Degout はその威厳ある声と真実性で、この人物が物語の中核となっていることを雄弁に示した。ドゥグーのもつ存在感は圧倒的で、今回の上演では、まるでオペラ全体がラクメをめぐるニラカンタのジレンマを描いているかのようだ。 二人の侍従マリカとハージ 侍従であるマリカとハージは、今急上昇中のアンブロワジーヌ・ブレ Ambroisine Bré と、オペラ・コミック・アカデミー出身のフランソワ・ルジエ François Rougier が歌った。…
スペクタクル
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カミーユ・サン=サーンス Camille Saint-Saëns 没後100年の催しの一環で昨2021年秋に上演され、数都市を巡回している1幕オペラ《黄色い姫君 La Princesse jaune 》。同じく1幕もののビゼーの《ジャミレー Djamileh 》と合わせた2本立てだ。 リール郊外トゥルコワン市 Tourcoing のレイモン・ドゥヴォス市立劇場 Théâtre Municipal Raymond Devos で、アトリエ・リリック Atelier Lyrique de Tourcoing のプログラムの一環として、フランソワ=グザヴィエ・ロト François-Xavier Roth がレ・シエクル Les Siècles を指揮して5月末に3日にわたって上演された。 ***** 1870年代の上演背景 筆者が干渉したのは、最終日の5月22日。この稿では主に《黄色い姫君》をレビューするが、その前に作品の成立の背景を見ておこう。 二つの作品は、19世紀半ばから絵画などでとくに好んで取り上げられていたオリエンタリズム(東洋主義)の潮流の中で上演された。《黄色い姫君》の初演は1872年6月12日、《ジャミレー》は同年5月22日というから、ほとんど同時期に世に出された双子オペラと言っても良いだろう。サン=サーンスは、その前年に創設された国民音楽協会の共同発起人だが、1880年代半ば、同協会のコンサートで、外国人作曲家の作品を演奏できることが可決されると(それまではフランス人作品に限られていた)、決議に抗議して協会から離れたという経緯がある。このことから保守的な作曲家というイメージが強いが、実際は全く逆で、フランスで最初に交響詩を作曲したり、パイプオルガンを初めて交響曲に取り入れたり(交響曲ハ短調《オルガン付き》作品78、1886年)、近現代における古楽見直しのはしりとなるラモー全集(デュラン社、1895〜1918)の監修を行ったり、さらに晩年には世界で初めて映画音楽を作曲する(《ギーズ公の暗殺》、1908年)など、生涯にわたって新しいものを積極的に取り入れた。 《黄色い姫君》は、彼の好奇心を物語る作品の一つだ。ジャポニズムが徐々にモードとしてパリを席巻しつつある頃に、フランスで初めて日本を題材に作曲されたオペラが、この作品なのだ。初演から40年ほど経って、サン=サーンス自身、回想録で「日本が大流行して皆日本のことしか口にしなくなったので、日本を題材にした作品を書こうというアイデアがわいた」と語っている。初演された1872年は、プッチーニの《蝶々夫人》(1904)の30年以上前、メサジェの《お菊さん》(1893)の20年以上前である。彼の先進の気風がわかる。 当時さかんに見らた1幕もののオペラ・コミック(歌とセリフが交互に出てくるジャンル)というフォーマットの背景には、普仏戦争に敗北し国中が疲弊していたフランスで、制作費が安くてすむ短い作品を提供することで、手軽に文化を取り戻そうという意図があった。オペラ・コミックなので、専門のオペラ歌手を起用せずとも、俳優が歌の部分を歌って上演できるという利点もあった。 《黄色い姫君》 オランダ経由の日本美術 《黄色い姫君》は若いオランダ人のコルネリスと、その従姉妹でコルネリスに恋するレナの話。コルネリスは日本の屏風に描かれた女性に首ったけになり、女性に息を吹き込むことを夢見て、毎日錬金術まがいの実験をしている。その中で、魔法の薬が希望を叶えてくれるということを知る。薬を作って飲んだコルネリスは幻覚症状にとらわれ、室内は日本風に変わり屏風の女性が動き出したと錯覚する。その女性は実はレナだった。屏風の女性に熱烈な愛を告白するコルネリスの言葉を素直に捉えたレナだが、それが屏風の女性ミン…
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今年2022年はモリエール生誕400年。政府主導の公式行事の他、私立劇場などが独自にプロデュースする演劇も多く、フランス全土の舞台で賑わいを見せている。 年頭から各地を巡回しているヴァンサン・タヴェルニエ Vincent Tavernier の演出の3作品もその一環で上演されており、3月末にはランス・オペラ Opéra de Reims にやってきた。そのうち『シチリア人、あるいは恋する画家 Le Sicilien ou l’Amour Peintre』と『強制結婚 Le Mariage forcé』を観た。3作目の『病は気から Le malade imaginaire』はランスでは上記2作の2週間ほど前に上演されていたが日程が合わず、4月に入ってからリール郊外のトゥルコワンで観た。 (注意!じっくり読みたい人向けの長文レヴューです。) ***** 『シチリア人、あるいは恋する画家 Le Sicilien ou l’Amour Peintre』、『強制結婚 Le Mariage forcé』、『病は気から Le malade imaginaire』の3作はいずれも、演劇はレ・マラン・プレジール劇団 Les Malins Plaisirs、オーケストラはエルヴェ・ニケ Hervé Niquet 率いるル・コンセール・スピリテュエル…
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2月の終わり、リール近郊のトゥルコワン Tourcoing で、パーセルの『フェアリークイーン The Faily Queen』(邦題『妖精の女王』)が3回にわたって上演された。昨年プログラムに組まれていたものが、新型コロナウィルスの影響で延期になっていたもの。セミオペラの特性を存分に生かした演出では、演劇部分とオペラ部分を対等に扱い、当時のエスプリを彷彿させる快心の作となった。 ***** シュールな演劇部分 このバージョンの特徴はまず、現代の英国を象徴する人物を登場させたシュールな演劇部分にあるだろう。ボリス・ジョンソン、サッチャー元首相、ダイアナ妃、エリザベス女王が、時代を超えて「共演」しているのだ。客席からだと本人かと見間違うほどそっくりなボリス・ジョンソンに扮するのはアラン・ビュエ Alain Buet。バロックオペラからオッフェンバックまで幅広いレパートリーを誇るベテランのバリトンだ。サッチャー元首相とダイアナ妃は、男性が女装。これは、当時重要な役割を担っていたトラヴェスティを現代に置き換えたようだ。そのジョンソン首相がダイアナ妃に熱烈に求愛するという、想像を超えた世界が繰り広げられる。かつての仮面劇(マスク)にしたがって、本筋と並行してダンスをふんだんに見せる場をカットせずに上演しているのも特徴だ。英国のバロックダンサー兼コレグラファーのスティーヴン・プレイヤー Steven Player は、サッチャー役で踊りに踊った。青いスーツに身を包み(アリス・トゥーヴェ Alice Touvet による衣装が目を楽しませてくれる)、ティーカップとティーポットを忍ばせたバッグを離さず(そして暇があればティータイムだ)、オーケストラが舞曲を演奏するときはそれに合わせてホーンパイプはじめさまざまな踊りを次から次へと披露する。そのスタミナと耐久性には脱帽だ。もしかしたら彼が主役かと思うほどの活躍ぶりだった。女王陛下は帽子とお揃いの派手なピンクのスーツ姿で、そこかしこにお座りになられ、にこやかな笑みをたたえてほとんど無言でことの成り行きを見守っておられる。そんな中、一瞬、チャールズ王子が執拗に太鼓を叩く兵士のおもちゃとして登場。外から見た英国のクリシェをこれでもかと盛り込んでいるのに、全く陳腐に終わらないのは、演出家ジャン=フィリップ・デルソー Jean-Philippe Desrousseaux の力量だろう。 鬼才の演出家デルソー デルソーの鬼才は、このオペラの下敷きであるシェクスピアの『真夏の夜の夢』のセリフを引用し、これを見事に演出に溶け込ませている所にも表れている。コヴェントリー大聖堂の廃墟*(フランソワ=グザヴィエ・ギヌパン François-Xavier Guinnepin のセノグラフィーによる装置。ギヌパンは照明も担当)に、『真夏の夜の夢』の上演の練習にやってきた演劇団が、そこでくつろいでいたオックスフォードの女学生のグループに会い、演劇に参加するよう誘う。そして皆がおとぎの国で物語を繰り広げるという設定だ。劇の練習が次第に劇そのものになってゆくのだが、そのところどころにシェークスピアの箴言を散りばめ、パーセルのセミオペラとの強い関連性を提示している。その上でデルソーならではのアイデアを存分に発揮。彼が得意とするマリオネット劇で、「鉄の女」と渾名されていたサッチャーの人形が「敵」を叩きのめす場面もある。さまざまなアイデアで次から次へと繰り広げられるシーンに息つく暇もないが、動と静のバランスが絶妙で、見ていて全く息苦しくならない。演劇出身でジャンルを問わない、好奇心にあふれた根っからの劇場人間、ジャン=フィリップ・デルソーの面目躍如たる見事な舞台なのだ。 *コヴェントリー大聖堂は、第二次世界大戦でドイツ軍による空襲で破壊され廃墟となった。 役に入り込む歌手たち その舞台では、主に演劇部分は人間模様を、オペラ部分は神話の世界を語っているのだが、オペラを歌う歌手たちの、役に入り込む度合いがすごい。中でもソプラノのレイチェル・レッドモンド Rachel Redmond とバリトンのアラン・ビュエに耳が惹きつけられる。レイチェル・レッドモンドはレ・ザール・フロリサン Les Arts Florissants との共演が多く、このようなオペラへの出演は少々意外に思えたが、いざ蓋を開けてみると、彼女独特のピュアでよく通る声が見事な存在感を出し、他の声との兼ね合いでも素晴らしい効果をあげていた。アラン・ビュエは、最初にも書いた通り、バロックオペラであれオッフェンバックであれ歌曲であれ、幅広いレパートリーを誇り、とくにフランスものを歌わせれば右に出るものがいない大御所。演技も優れており、今回のパーセルでも、観客の期待のままの演奏・演技を披露してくれた。終演後のカーテンコールで指揮者のアレクシ・コッセンコ Alexis Kossenko…
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ベルギー、リエージュの王立ワロニー・リエージュ・オペラ Opéra royal de Wallonie-Liègeは、1月末から2月初めにかけて、ウンベルト・ジョルダーノ Umberto Giordanoの『聖母月 Mese mariano』とジャコモ・プッチーニ Giaccomo Pucciniの『修道女アンジェリカ Suor Angelica』を二部作に見立て、5回にわたって上演した。指揮はオクサーナ・リーニフ Oksana Lyniv 。ラーラ・サンソーネ Lara Sansone の演出は台本の記述を忠実に守った、非常にクラシックな舞台だった。 ***** 今回の「二部作」の話題は、ほとんど上演されることのないジョルダーノの『聖母月』が演出付きで観られることと、指揮のオクサーナ・リーニフが初めてリエージュ・オペラに登場することだった。彼女は昨年(2021年)7月、バイロイト史上初の女性指揮者として、『さまよえるオランダ人』を振ったのでご存知の方も多いだろう。このリエージュ公演では、指揮よりも演出に注意が向かった。そこで、演出を中心に論じてみたい。 あらすじ 二つともあまり上演機会がない作品なので、まずあらすじから見てみよう。 『聖母月』の題名は日本語ではなぜか『マリアの唇』となっているが、その由来はよくわからない。イタリア語のMese mariano は「マリアの月」の意で、聖母祭がもたれる5月をさす。それはオペラの筋書きからも明らかだ。主人公のカルメーラは、かつて結婚前に夫とは別の男性との間にできた子供を、夫の強い意向でやむなく手放さねばならなかった。復活祭の日曜日に、ふと我が子に会いたくなり、子供が生活している修道院の孤児院にやってくる。しかしその我が子はまさにその日に亡くなっていた。修道院長は、子供は聖歌隊でマリア月のミサのために練習をしているので、会うことができないと面会を断る。カルメーラは次回こそは子供に会いたいと、心を引き裂かれる思いで修道院を後にする。 『修道女アンジェリカ』も、題名が示す通り、修道院が舞台だ。アンジェリカはかつて恋愛におち子供を産んでいた。その罪を償うためにという家族の意向によって修道院に入れられたアンジェリカの唯一の望みは、子供に会うことだった。ある日、高級貴族の叔母がやって来て、貞操なアンジェリカの妹が結婚するので、相続権を破棄する書類に署名をせよと迫る。その際アンジェリカは我が子の知らせを尋ねるが、叔母の沈黙から、子供は亡くなってしまったことを察する。彼女は絶望のあまり自殺を図るが、自死が深い罪の行為であることに気づき、聖母マリアの加護を祈る。天から贖罪の歌声が聴こえて幕が閉じる。 演出のスタンス 台本からも分かる通り、二つの作品は同じようなテーマを扱っており、二部作にするにはもってこいだ。作品では宗教の重圧があまりにも前面に押し出されていて、現代のヨーロッパ人の感覚には重すぎる。そこで、二つの選択が考えられる。台本に忠実に、衣装や舞台装置も書いてある通りにするものが一つ。これはわかりやすいかもしれないが、多くの人が感じていた逃げ場のない重さを強調することになる。もう一つは、個人の物語として内面の痛みを表現するもので、直接的な表現を避け抽象的なものにすることが多い。例えば修道院を白い壁で囲まれた広い空間にするなどである。こちらが一般的な傾向だ。しかしサンソーネは「台本と音楽をそのまま尊重」する演出で、修道院という環境を文字通りに表現することを選んだ。このリエージュ・オペラでの演出は、「どのようなスタンスを取り入れるか」を考える上で、大変に興味深い例を示していると思われる。 ラーラ・サンソーネの演出の考え方 彼女はプログラムに、今回の演出についての考え方を示す一文をあげている。その中から一部を抜粋してみよう。 「『修道女アンジェリカ』をひもといた時、かなり昔につくられたオペラに、どれだけ私たちの世代に語りかけるものがあるかということに驚きました。台本と音楽を読めば読むほど、他の修道女たちから受ける制約や悔恨をはるかに超えた力が、主人公の胸中の生きたいという願望によってふつふつと湧き出していることが理解できました。その力は、深い抑圧の重苦しい時代にあったあらゆる限界を超越したところで、湧き出ているのです。」 「『修道女アンジェリカ』では台本と音楽をありのままに尊重した演出をしたいと思い、〔中略〕修道女たちの着古された重い修道着と金色の光(1年に3日だけ修道院の回廊に入ってくる太陽の光)を通して、痛苦と蘇生の物語を表現しました。」 「『聖母月』はナポリにある古くからの伝統に深く関連した作品ですが、私は代々ナポリに住む家族の出自なので、ここに表されているサインや気分が手に取るように理解できます。ここでも、きれいなイメージからかけ離れた、ありのままのナポリに物語をおき、台本と音楽に忠実に演出しました。」…
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全ての劇場が閉鎖されているフランスで、唯一の活動根拠となるのがリハーサルと収録(録音、録画、テレビ等の放映)であることはすでに何度も述べた。日を追って財政困難が増す中、維持できる活動はできる限り実現しようと、どの劇場も必死だ。 トゥール・オペラ Opéra de Tours は、パリからTGVで約1時間あまりのフランス中西部トゥール Tours 市にある市立オペラ。ここも例にもれず多くの演目を中止せざるを得ない状況だが、1月末から2月はじめに予定されていたドニゼッティのオペラ『ドン・パスクアーレ』は、収録*という形で中止を免れた。1月31日に行われたその収録セッションに、他の数人のジャーナリストとともに立ち会うことができた。 トゥール駅から歩いて10分もない場所にあるオペラ(グラン・テアートル Grand Théâtre)は、1872年の建物の一部が1883年の火災で消失したものを改修して1889年にオープンしたもの。1999年から2016年まで音楽監督(指揮者)だったジャン=イヴ・オッソンス Jean-Yves Ossonce 氏が、知られざるオペラも意欲的に取り上げる独自のプログラミングで他にはないユニークな地位を築いた。彼のあとを引き継いだ指揮者が数年で去り、2000年9月に地道な指揮活動で高い評価を受けているローラン・カンプローヌ Laurent Campellone がグラン・テアートル総裁に任命された。氏の任命は、オペラの付属オーケストラでもある(もちろん独立した演奏活動もしている)中央・ロワール渓谷地方/トゥール・シンフォニーオーケストラOrchestre symphonie de la Région Centre-Val de Loire/Tours の団員の希望によるものだった。彼もフランスものに深い造詣がある。 さて、今回の『ドン・パスクワーレ』の上演の指揮はカンプローヌではなく、オペラを中心に振るフレデリック・シャスラン Frédéric Chaslin。彼の指揮も確実さに定評がある。 効果的な動きの演出 楽屋口に集合し、プレス担当官の案内で舞台裏から舞台を経て客席に到達。その際、オーケストラは無観客なのを利用して1階席の半分まで使ってディスタンスをとった配置にしている、と説明を受けた。実際、正面バルコニーから舞台を見ると、1階席の半分以上をオケが占め、その後方には収録用の技術スタッフが録音機材とともに陣取っている。 舞台は黒いカーテンで前方をしきり、そこに椅子が2脚置かれているだけ。舞台演出 mise en scèneではなく、動きの演出 mise en espace による上演だ。 ニコラ・ベルロファ Nicola Berloffa…
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(2017年12月にMixiに投稿した記事に加筆・訂正したものです) この12月、シャンゼリゼ劇場ではロッシーニの《セヴィリアの理髪師》をダブルキャストで上演した。オーケストラはル・セルクル・ド・ラルモニー Le Cercle de l’Harmonie。指揮はこのオケの共同創始者のジェレミー・ロレール Jérémie Rhorer。 ダブルキャストは、すでに国際舞台で活躍している歌手による第1キャストと、キャリアを積み始めたばかりの若い歌手による第2キャスト。シャンゼリゼ劇場で見たのは12月6日、第2キャストのプルミエだった。 二つのキャストは全く同じ演出・オケ・合唱団での上演なので、第2キャストの若い歌手と言っても、いやでも第1キャストと張り合う、または比べられる形になる。そういうプレッシャーはあったのだろうが、演奏は歌手陣、オケ、演出スタッフが一つになったチームワークのよさを表してあまりある、見事なパフォーマンスだった。 フランス語での批評はこちら。 第1キャスト 第2キャスト
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(雑誌「ふらんす」2020年2月号の記事を大幅に書き換えたものです) 年金改革に反対して昨年(2019年)12月5日からストライキが続けられているフランスで、1月11日、バスティーユ・オペラ座で予定されていたロッシーニ『セヴィリアの理髪師』のプルミエ公演が中止となったことが、当日の朝に発表された。プレス担当官の責任者が、この日の公演を鑑賞する予定だったジャーナリストや批評家などに宛てて、10時すぎにメールで知らせた。公演中止は同日午後、一般の聴衆にもメディアなどを通して伝えられた。 同9日、音楽雑誌『ディアパゾン』ウェブ版が、オペラ座は重なる公演中止によってすでに1230万ユーロ(約1億500万円)以上の損失という試算を出したと報道したばかり。 2019年12月17日にはオペラ座合唱団が、24日にはバレエ団の女性ダンサーが、さらに31日にはオーケストラ団員がバスティーユ・オペラ座やガルニエ宮の前で演奏やパフォーマンスを行い、政府の新年金案に抗議。政府は、これまで細かく別れていた特別枠の年金制度(例えばオペラ座バレエ団のダンサーは42歳で定年)を、職業、重労働の度合いなどを全く区別せずに一律64歳にひきあげる案をメインとして提出しており、ストやデモ参加者の多くは、これまでの特別枠を守ろうとして抗議している。 ストライキが始まって以来、オペラ座はほとんど全ての公演を中止しているが、中止の決定が公演予定開始時間のたった2時間前であったり、中止の連絡が徹底されていなかったりと、これまでに聴衆からも多くの批判を受けていた。 1月11日から2月12日まで予定されている『セヴィリアの理髪師』は、アメリカのソプラノ歌手、リゼット・オロペサ Lisette Oropesa が初めてロジーナ役に挑戦するということで注目されていた。彼女は2015年にバスティーユで『後宮からの誘拐』のコンスタンツェと『リゴレット』のジルダを歌い、とくにジルダ役での成功により世界各地のオペラ劇場からオファーが相次ぎ、現在若手の有望株として非常に期待されている。 Photo Opéra Bastille en grève © Martin Bureau-AFP
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この記事は、2017年1月にMixiに投稿したものを、2020年12月に編集し直したものです。 パリのエスプリがたっぷり! ちょっぴり(時にかなり)エロチックなファンタジー・レヴュー 年のはじめに肩のこらないショーを見るのは楽しい。19世紀からずっと続く、パリならではの小さな劇場でのショーなら、その楽しみは倍増する。今日は1月7日に見た、ベル・エポックのミュージックホールを彷彿させるレビューを紹介しよう。 トレヴィズ劇場 『パリ・シェリー』が上演されたトレヴィズ劇場 Théâtre Trévise は、19世紀末に建てられた建物の一部を占拠する形で存在する。実はパリには、住居用建物の一部に組み込まれた劇場が多い。このような舞台は、スペースも限られていることから、座席数も100席から300席くらいの小・中規模なもので、まだ映画もラジオもテレビもなかった19世紀に、主要な娯楽場として、ミュージックホールなどとともに、人々が集う場所だったのだ。私がパリでいつも感心するのは、このようなスペースをそのまま引き継いで(残念ながらいろいろな事情から取り壊されたものもあるが)、今でも連綿とショーの伝統が継承されていることだ。舞台ソデも狭く、緞帳も時にはかなり傷んでいて、内装も昔のままの、場所によっては「時代おくれ」な感もするこれらの劇場だが、デビューしたての駆け出しからベテランまで、さまざまなアーティストが毎夜、お笑いショーや、ワンマンショー、演劇、ミュージカルなどで、パリジャンたちを楽しませてくれる。本当にパリの日常に密着したスペクタクルを見たいなら、ぜひこういう小さな劇場に行くことをお勧めする。 トレヴィズ劇場に話を戻そう。ここが劇場として開場したのは1992年で、日本でもよく知られた伝説のミュージックホール、フォリー・ベルジェールや、アントワーヌ劇場(それまでの演劇コードを破って自然主義的な路線であらゆる試みを行ったかつての「自由劇場」)からほど近い場所にあり、座席数は270席。ワンマンショーやお笑い系の出し物が多く、毎週日曜日20時30分からは、これからデビューを目指す若いお笑いアーティストなどに自由に解放されており、今ではフランスお笑い界のスターや常連となった「芸人」たちを、幾人も檜舞台に送り出している。今ではなくなってしまったようだが、10年ほど前まではその様子が毎週テレビ収録されていて、深夜に放送されていた。 トレヴィズ劇場は、1994年に、日本の重要文化財に相当する「歴史モニュメント」に指定されている。建物はかなり古く、壁には手垢がついていて、劇場のシートもかなりくたびれている。「歴史モニュメント」指定の建物や物品(芸術・工芸作品や書籍なども対象になる)の修復には細かい規制があり、改装などが簡単にできないことも関係しているのかもしれない。入り口も狭く(19世紀仕様だから仕方ないか)、火災などが起こるとどうなるんだろう? というような考えもふと頭をよぎったりする(そしてそういう不安にかられるつくりの劇場はパリにはかなり多い)。ともかく、そんな情緒溢れる(?)場所で見たのが『パリ・シェリー』。 『パリ・シェリー』ファンタジー・レヴュー 「ファンタジー・レヴュー」と銘打たれた『パリ・シェリー』。ファンタジー・レヴューとはなんぞや? ということで、このレヴューの発案者で演出も担当したクリストフ・ミランボー氏 のインタビューから抜粋してみよう。 「19世紀、犯罪通りの劇場が毎年『年末レビュー』を上演しだした頃に、ファンタジー・レヴューというジャンルも生まれました。その年に起こった出来事を、滑稽かつ辛辣なコント、誰もが知っている歌などでパロディ化し、タブロー(幕)と呼ばれるそれらの一つ一つの出し物をつなげて、『レヴューrevue*』にしていったのです。総合タイトルがそのレヴューで扱われている話題を一言で表現すると同時に、レヴューに統一性をもたらしていました。後に、ミュージックホールが出現し、ショーの内容も刺激的なものになっていくと、レヴューも、オペレッタ風、ミュージックホール風、コメディ風、大スペクタクルなど、多様化していきました。『ファンタジー・レヴュー』はレヴューという大きなジャンルの下に位置する小ジャンルで、性格や気分の異なるタブローをいくつもつなげてつくられたショーであることを示しています。」 *フランス語のrevue(ルヴュ)という語は動詞のrevoirから派生した名詞で、動詞には「再会する」「再び見る」「謁見、閲覧する」「再び点検、検討する」などの意味がある。 エロチックだけれどシックでエレガントなシャンソン 『パリ・シェリー』で歌われるシャンソンは、1910年代から50年代に舞台にかかっていた歌だ。その大部分は20年代と30年代の二つの世界大戦間のミュージックホールの全盛期、いわゆる「ベル・エポック」の時代のもの。ジョゼフ・コスマ、ヴァンサン・スコット、コール・ポーター、オスカー・シュトラウス、ラウル・モレッティ、モーリス・イヴァンなど、一世を風靡した作曲家の歌が約30曲。テーマは「アムール」で、ヘテロ、ホモ、レズ、ビセクシュアルと、なんでもござれ。歌詞は示唆的だが、何かをはっきりと言うわけでもなく、コミカルな調子で楽しむことができる。 例えばジャン・ギャバンが歌った(ギャバンは映画俳優になる前に、ミュージックホールで歌っていた時期があった)『レオ、レア、エリー』は、不思議な三角関係を歌ったシャンソンで「レオはレアの持ち物を共有してたけど、エリーもそこに加わって、レアはエリーの持ち物を共有するようになりました。ということで、レオのものはレアのもの、レアのものはエリーのもの、そしてエリーのものはレオのもの」と歌う。三角関係と言うより、三人での生活をほのめかしている。1930年の作曲だが、のちのヌーヴェル・ヴァーグ映画に通じるものがないだろうか。 1923年、カジノ・ド・パリのレビューで舞台に響いた『手に持った小さな杖』。この歌の前には、司会役が会場から「純粋なパリジャン」(5代以上前からパリに住んでいる人を指すことが多い)を呼び出して、「旦那には3本目の足があるでしょう?」 呼び出された観客が答えに困ったところで「旦那も小さな杖を持ってるでしょう?」 そして歌が始まるのだが、歌詞は(健全な精神の持ち主には)至ってふつう。直前の掛け合いで裏の意味が誰にでもわかるようになっている。 大詰めになって観客も一緒に歌う(歌わされる)「Ah ! Les Cénobites ! (ああ、セノビー人たちよ!)」では、Mesdames, Les Cénobites en repos !(奥方たちよ、セノビー人が休憩している)と陽気に歌うのだが、これは言葉遊びで、フランス語で発音してみると何を言っているか一目瞭然(歌詞はあまりに直接的なので、ここでの訳は避けることにする)。ただ、文字に書かれた歌詞は、完全に別の意味となっていて、検閲があったとしても全く引っかからない。そこらへんはパリのエスプリがピリリときいている。要は過激な下ネタなのだが、こういう「お茶目な」遊び心が、全く品をおとさずに、シャンソンをエレガントでシックなものにしていると言えまいか。 新アレンジ 今でも時々、出し物としてこの時代のシャンソンが舞台にかかることがあるが、それはピアノ伴奏で歌を次々と歌うものであることが多い。ミランボー氏は、それを避けて、各時代の最高峰の作曲家や歌手が伝統として伝えてきた「愛の都、パリ」というイメージを、ささやかながらも豪華でシックな舞台として提供したいとずっと思ってきたという。氏は1890年から1950年あたりのフランスの「ショービジネス」界の歴史を知悉しているショーマンで、これまでにも忘れられた作品を舞台にかけてきたが(昨年上演されたモーリス・イヴァンのオペレッタ『イエス!』は秀逸だった)、今回も、ほとんど知られていない曲を中心に、全てを新アレンジするという意気込みようだ。そのアレンジは、弦楽器、管楽器、打楽器、ピアノからなる16人の本格的なオーケストラのために書かれ、ミュージックホールの専門家も絶賛。この手の出し物の伴奏は大抵、先ほど述べたピアノ伴奏のほか、ジャズトリオや数体の楽器のみで済まされることが多いので、その豪華さがわかる。小さな舞台の上手に弦楽器、下手に2段になって管楽器が並び、その前にはピアノが、中間にはドラムとパーカッションが置かれている。これで舞台のほとんどを占領しているが、その合間をうまく縫って歌手を動かせ、時には躍らせる演出も、舞台で効果をつくりあげることを知り尽くしたミランボー氏ならでは。 衣装は赤と黒で統一。男性は簡易スモーキング、女性はドレスだが、100年前の匂いがプンプンするようなものではなく、どの時代にも通用する衣装を選んだ。 トップレベルの歌手・音楽家たち フランス特有のジャンルであるシャンソンを歌うには、高度な歌唱力だけでなく、歌詞をはっきりと発音し、俳優なみの演技ができることが要求される。『パリ・シェリー』で歌い演奏するミュージシャンは、フリヴォリテ・パリジエンヌLes Frivolités parisiennesとアレポAREPO-Les grands Boulevardsという二つの演奏団体のメンバー。 Les Frivolités parisiennesは、19世紀、20世紀初めの忘れられたフランスのオペラ・ブッファやオペレッタを現代に蘇らせようとさまざまな試みを行っており、今までに、オペレッタの父エルヴェの『小さなファウストLe…
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11月11日にオペラ・コミック劇場でプルミエが上演されるはずだったラモーのオペラ『イポリットとアリシー Hippolyte et Aricie』は、10月末に発令した全国的な外出禁止令で中止となり、無観客ライブで上演された。 同劇場では9月末から10月はじめに予定されていたリュリの『町人貴族』がなんと初日の開演2時間前になって上演を中止せざるを得なくなるというハプニングがあった。主要な出演者の一人に、ウィルス検査で陽性反応が出たためだ。当初最初の3公演のみ中止とされていたが結局全公演が中止となり、バロックオペラファンは、次の『イポリットとアリシー』に大きな期待を寄せていた。理想的とも言えるフランス語圏歌手による豪華キャストが注目されていたからだ。 今回の外出禁止令では、前回の都市閉鎖とは異なり、劇場や映画館は閉鎖され上演はできないが、今後予定されている演目のリハーサル、CDなどの録音、動画収録、ネット配信などは可能。オペラ上演には練習とリハーサルに最低でも2ヶ月を要する。『イポリットとアリシー』はその最終段階にあり上演可能な状態だったため、劇場側はライブストリーミングでの上演を決定。11月14日土曜日の20時から、無観客上演で配信されると同時に、ラジオ France Musique でも生中継された。 当日は第一部の最後の方で技術的な問題から配信が中断されるというハプニングが起きた。第二部から再開されたが、時々、一瞬ではあるが画面が固まる状態に何度か陥った。 さて、ライブで見た全体の感想は次の二言に尽きる。素晴らしい歌手陣による音楽的に到達した見事な演奏と、納得できるとは言い難い演出。この二つがあまりにも対照的で、演出を気に入らなかったオペラファンたちがこぞってソーシャルネットワークに「ラジオで聞くだけで十分!」と書き込んだほどだ。 中心人物の衣装はオペラが初演された当時の18世紀風だが、それ以外の人物や舞台は現代風(サファリ用のつなぎにゴム長靴、白シャツにネクタイ、ビキニ、掃除婦など)で、舞台装置は鉄パイプ組み(演出家によるとフェードルの胸郭だそうだ)、エレベーターや自転車まで出てくる。幕が開いてすぐ、狩猟の女神ディアーナと猟師たちが銃を撃ち放つと、白い布に色とりどりのペイントが投げつけられる。女性彫刻家ニキ・ド・サン=ファールが絵の具の弾丸をつめた銃を撃って描いたことにヒントを得て、視覚要素を現代化したというのだが、これがその後の演出につながらない。それぞれの場に取り入れられたアイデアが、全体として一貫性のない印象を与え、終始、繰り広げられる話とはチグハグな感が否めなかった。 余談になるが、時代や国を現代に移し替えることは頻繁に行われているとはいえ、話の主題と音楽の性質をよく踏まえたものでないと、見る側からはすぐに意図が掴めない。二つの時代を同時に取り入れた場合、ミスマッチが意表をついて新鮮で成功する場合と、混乱や不理解を招く場合があるが、今回は後者だったと言わざるを得ない。 さて歌手陣。圧倒的な存在感と深みのある声で全体を牽引したのは、何と言ってもフェードル役のシルヴィ・ブリュネ Sylvie Brunet。テゼー役のステファン・ドグー Stéphane Degout は迫真の声と演技で聴く人を惹きつける。ラインウード・ファン・メヘレン Reinoud van Mechelen(イポリット)とエルザ・ブノワ Elsa Benoît(アリシー)は、それぞれの声質を生かした歌唱の兼ね合いが素晴らしい。そのほか、注目の若手メゾソプラノ、レア・デザンドレ Léa Desandre が歌う最終幕のアリア「恋するうぐいす」は逸品。 アンサンブル・ピグマリオン Ensemble Pygmalion(合唱とオケ)は、色彩に富んでいながら深い統一性があり、指揮のラファエル・ピション Raphaël Pichon の入念な解釈が隅々まで生きている。バレエに相当する部分では、ダンサーがわりに合唱団員が動きを添えていた。 無観客中継ということで、オケピットの位置を舞台の近くまで上げ、オーケストラ団員が歌手たちとアイコンタクトを取りつつ演奏できるようにした他、客席の前方数列まで場所を広げて団員を配置。オーケストラが大きな役割を果たすラモーの音楽を存分に聴かせる工夫が取られた。また、普段は観客がいるため侵入不可能な場所にカメラを配置し、新しいアングルからの撮影も試みた。 ネット配信の音質は、どんなに良い録音・録画機器を稼働させ、音や画面を「忠実に」再現するとされている再生機器で聴いても、実際の劇場での公演には全く叶わない。空間を共有することで歌手やオケの息遣いを感じ、気持ちが高揚して作品の中に入り込むという体験が大きく薄れるからだ。公演が終わって普通なら拍手とブラヴォーの声が飛び交い、カーテンコールが続くはずの時に、静寂の中に無言でたたずむ歌手たちの様子がリアルに画面に映し出される光景はなんとも違和感があり、カメラワークが、逆にある種の気まずさをも演出した形になった。 閑話休題。 多くのオペラ劇場の例にもれず、オペラ・コミック劇場も数年前からソーシャルネットワークを含めたウェブコンテンツに力を入れ、誰もがオペラに親しみを持てるようにさまざまな工夫をこらしている。歌手への一問一答ビデオでは故意にジョーク質問を投げかけ答える方も軽いノリで対応してオペラ全体のイメージを一新。ストーリーがややこしい作品には、事前にレジュメを出したり、1970年代風のフォトストーリーに仕立てている。 『イポリットとアリシー』はこんな感じ(クリックで拡大)。 2〜3年前からは、作品の中の有名な、または覚えやすい合唱をみんなで歌おうと、開演前に30分ほど歌唱指導が行われている。とくに歌を習ったことがなくても楽しくオペラに親しもうという企画。 オペラ・コミック劇場のウェブサイトには、練習・リハーサル中のマスク使用について出演者が語っている短いビデオもアップされており、大変に興味深い発言もあるので、フランス語がわかる人はぜひご覧になることをおすすめする。…
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2018年5月にコンピエーニュで初演され、ロシュフォールを経て6月にパリのアテネ劇場で上演されたパスカル・ザヴァロ台本・作曲のオペラ『マンガカフェ 』を報ずる小記事が白水社の雑誌『ふらんす』に掲載されました。 https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/1014 独占座談会(作曲家、指揮者、演出家、ソプラノ歌手)第1回はこちら 第2回、第3回と続きます。
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フランスでは数年前からオペラを短縮して上演する動きが活発化している。上演時間は1時間あまりで、子供も含め家族で楽しめる上演形態として徐々に定着しつつある。昨シーズンは例えば2018年1月にシャンゼリゼ劇場でロッシーニの《セヴィリアの理髪師》が《Un Barbierある理髪師》というタイトルで舞台にかかった。今シーズンは来年2019年5月にやはりシャンゼリゼ劇場が《Une Carmen, étoile de cirque(サーカスの星カルメン)》と銘打って、1時間15分の上演を予定している。これらのオペラは、メインストーリーは残しながら副次的なものを思い切って取り払い、演目によっては聴衆もコーラスなどに参加できる(上演前に練習できるようになっている)。オペラを堅苦しいものではなく、積極的に楽しめるものにしようというのが狙いだ。 《Bohème, notre jeunesse ボエーム・私たちの青春》 さて、オペラ・コミック劇場 Opéra Comique では、7月9、11、13、15、17日に、《Bohème, notre jeunesse ボエーム・私たちの青春》と題した《ラ・ボエーム》の縮小版を上演した。作曲家のマルク=オリヴィエ・デュパン Marc-Olivier Dupin が、ストーリーの核をなすアリアはそのまま残し、8人の歌手と、13人の縮小オーケストラのために編曲した。楽器編成は、弦楽四重奏、フルート、オーボエ、クラリネット、バスーン、ハープ、アコーデオン、キーボード、打楽器群。たった13人と思うなかれ。オリジナル版にも勝るとも劣らない、さまざまな音色を生かした素晴らしい編曲で、アコーデオンもしっくりと溶け込んでいる。演奏は、19世紀半ばから20世紀前半にかけてのフランスの「軽い」オペラ、オペレッタなどを専門にしているレ・フリヴォリテ・パリジエンヌ Les Frivolités Parisiennes(このアンサンブルについての詳細はこちら)。指揮はアレクサンドラ・クラヴェロ Alexandra Cravero。少人数のアンサンブルにオーケストラの深みを与えているのは、編曲のうまさに加えて、彼女の指揮に負うところが大きい。指示が非常に明瞭で、それぞれの楽器の特性をよく引き出している。歌手への指示にもブレがなく、おそらく安心して歌えたに違いない。クラヴェロはリヨン国立高等音楽院でヴィオラの一等賞を得た後、パリ国立高等音楽院で指揮を学び、ブザンソンなどの国際指揮者コンクールでいずれもファイナルに残っている。ピエール・ブーレーズ、クルト・マズーアなどのアシスタントを務め、モンテカルロ、ソフィア(ブルガリア)、ブリュッセル・モネ劇場、パリ・シャトレ劇場、モナコ・オペラ座などで振っている。 女性による制作チーム このオペラの特徴は、編曲のマルク=オリヴィエ・デュパンと照明のブリュノ・ブリナスを除くと、制作・芸術チームが全て女性であるということだ。指揮者のアレクサンドラ・クラヴェロをはじめ、そのメンバーは、演出のポーリーヌ・ビュロー、舞台芸術のエマニュエル・ロワ、衣装のアリス・トゥーヴェ、ビデオ芸術のナタリー・カブロル、ドラマツルギー(劇作)のブノアット・ビュロー、リハーサルピアニストのマリーヌ・トロー=ラ=サル。 演出のポーリーヌ・ビュローは、イタリア語台本のフランス語への翻訳・翻案も担当した。20世紀はじめまでは、各国語のオペラはフランス語に訳されて上演されるのが普通で(イタリア語作品はイタリア劇場Théâtre italien でのみ原語上演が可能だった)、その時代の仏訳台本はあるが、今回は新訳上演となっている。メロディラインによくマッチした自然なフランス語で、この分野での彼女の貢献も大いに賞賛されるべきであろう。 ちなみに、歌詞の字幕はフランス語と英語。フランスのオペラ劇場はこれまで字幕はフランス語のみだったが、他のヨーロッパ諸国に習ってか、少しずつではあるが英語との2ヶ国語表記にするところが出てきている。 舞台装置は2階建ての「小屋」が屋根裏部屋になったり、カフェ・モミュスになったりする。ビデオが非常に優れており、小屋の壁にイメージを投影することで大きく場所を変えることに成功している。そのビデオにはネオンが登場したり、衣装もかなり現代っぽく、20世紀を想定しているような感もあるが、19世紀の雰囲気も全く捨ててはいない。舞台はミミが母親宛に絵葉書を描くところから始まるが、その字体は完全に現代の人が書くものだ。第3幕の装置の後方には建設中のエッフェル塔が後方に見え、それについては下のビデオで演出家が「話が繰り広げられるのはエッフェル塔が建てた1889年、パリ万博の年です」と言っている。しかし見る側としては、これが話の時代設定とも取れるし、主人公と遠い過去の(ひいおばあさんあたりの)話をオーバオーラップさせているとも取れる。 (ビデオはワイド版なのでカーソルを移動させて見たいアングルを決めてください) 大健闘の若い歌手陣 歌手たちは若手で揃えた。皆20代後半から30代である。ミミ役のサンドリーヌ・ブエンディア Sandrine Buendia は丹念で飾らない歌いぶりとまっすぐな音色を生かした発声に好感が持てる。ロドルフを歌うのは、今年2月の「Voix Nouvelles ヴォア・ヌーヴェル」コンクールで入賞したばかりの気鋭の若手ケヴィン・アミエル Kévin…