シャンティイー城で行われた室内楽の音楽祭「レ・ク・ド・クール・ア・シャンティイー Les Coups à cœur à Chantilly 」。 最終日10月2日のコンサートは、朝11時から城の絵画ギャラリーで、「若い芽コンサート」。そして17時からは、音楽祭最後のコンサートが大厩舎ドームで行われた。この稿では朝のコンサートを主にレポートする。 ***** 「若い芽のコンサート」 朝のコンサートには、マルタ・アルゲリッチ Martha Argerich の孫ダヴィッド・チェン David Chen(14歳)と、彼とよく舞台を共にしているアリエル・ベック Arielle Beck(13歳)が登場。二人ともすでに昨年、第1回の音楽祭に出演し、ソロや4手連弾で弾いたほか、アルゲリッチとも共演した。 コンサートではまずベックが4曲、ついでチェンが4曲、それぞれ30分ほどのハーフプログラムを演奏し、最後に二人の連弾で締めくくった。 舞台と客席の距離が遠い「大厩舎 Les Grandes Écuries 」のドームで聴いた昨年とは異なり、絵画ギャラリーはコンサート会場としては小さくサロン的な雰囲気で、彼らの演奏を改めて細部までよく聴くことができた。 アリエル・ベック アリエル・ベックは今年、パリ郊外のサン=モール=デ=フォセ Saint-Maure-des-fossés 音楽院に入学。ちなみにここはパリ国立高等音楽院の前院長で作曲家のブリュノ・マントヴァニ Bruno Mantovani が院長を務めており、活発な教育活動が行われている。 ベックは近年はビリー・エイディ Billy Eidi およびイーゴリ・ラスコ Igor…
レヴュー
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フランス王家ゆかりのシャンティイー城で、昨年から室内楽の音楽祭が行われている。今年は9月末から10月はじめに、3日間にわたって開催れた。 この音楽祭を2回に分けてレポートする。第1回はシャンティイーについて。 ***** フランス王家ゆかりのシャンティイー城 シャンティイー城をご存知だろうか。パリから北へ車で1時間足らずの所にあるフランス王家ゆかりの城で、最初に建築されたのが14世紀半ば。その後、建築、改装・増築を重ね、現在の形になったのが19世紀終わりだ。 のちにヴェルサイユの庭師として壮大な庭園を建造したル・ノートル Le Nôtre は、ここに大運河やフランス風庭園を造営して確固たる名声を築いた。 18世紀半ばには、城主コンデ公が王ルイ14世を迎えて開催した祝祭で、宴席を取り仕切っていた料理人フランソワ・ヴァテル François Vatel という人物が、仕入れた魚が届かなかった為に自殺したという有名な逸話がある。これはジェラール・ドパルデュー Gérard Depardieu 主演で映画『宮廷料理人ヴァテール』(なぜ名前が「ヴァテール」と長音になっているのか理解に苦しむが)にもなっているので、ご存知の方もいるかもしれない。 また、シャンティイー城内にある美術館には、ルーブルの次に重要な絵画コレクションを擁しており、とくにオマール公爵アンリ・ドルレアン(1822〜1897)のポートレートギャラリーは門外不出のコレクションとして世界に知られている。 レ・ク・ド・クール・ア・シャンティイー Les Coup de cœur à Chantilly そんな歴史あるこの城で、昨年から「レ・ク・ド・クール・ア・シャンティイー Les Coups à cœur à Chantilly 」という室内楽の音楽祭が開かれている。訳せば「シャンティイーのお気に入り」などとなるだろうか。 音楽監督はピアニストのイド・バル=シャイ Iddo Bar-Shaï。2020年に第1回を開催する予定だったが、新コロナウィルス対策に伴う劇場など文化施設の封鎖で叶わなかった。昨年2021年に行われた第1回は、6月に限られた聴衆だけに場を公開しつつ、ネット配信で開催された。昨年はマルタ・アルゲリッチ Martha Argerich が80歳を迎えたことから、これをどうしても祝いたいというバルシャイの思いにより開催された。…
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パリの国立オペラ・コミック劇場では9月28日から10月8日までレオ・ドリーブ Léo Delibes の《ラクメ Lakmé 》が上演されている。演出はローラン・ペリー。ラファエル・ピションが自らのピグマリオン(オーケストラと合唱)を指揮。主要キャストは、ロールタイトルにサビーヌ・ドヴィエルを迎え、イギリス将校ジェラルド役にフレデリック・アントゥン、ラクメの父ニラカンタ役がステファン・ドゥグー、ラクメの侍女マリカ役がアンブロワジーヌ・ブレ。プルミエ以降全日程が完売という人気で、聴衆のお目当てはなんといってもサビーヌ・ドヴィエルのラクメ。案の定、「鐘の歌」に観客は熱狂し、拍手が鳴り止まなかった。 ***** サビーヌ・ドヴィエルのラクメ サビーヌ・ドヴィエル Sabine Devieilhe は2014年に同じ劇場ですでにラクメを歌っている。この時はフランソワ=グザヴィエ・ロト François-Xavier Roth の指揮で、演出はリロ・ボール Lilo Baur。この時彼女はまだデビュー後間もない頃で、このラクメ役の大成功で一躍キャリアがひらけたといえる。2014年の彼女の歌を今でも覚えている人は多く、筆者もその一人だ)。 ドヴィエルは、クリスタルが光を受けて色彩を放ち透明な声に加え、フランス語の発音が驚くほど明快で、フレージングも音楽性に溢れている。彼女の歌唱においては、一つ一つの音に特有の役割を十分に果たしているがゆえに、どんなレパートリーでも全く違和感がない。バッハのように堅実さが求められるものから、この《ラクメ》のように技巧的な聴かせどころがあるものまで、コンスタントな歌唱が特徴だ。 今回観たのは9月30日の2回目の公演だが、ドヴィエルは28日のプルミエから絶好調で、現在彼女がコロラトゥーラソプラノとして絶頂期にいることを目の当たりにできる。このオペラの一番の聴かせどころ「鐘の歌」では、高音部で玉のように転がる音符を稀な完成度で、しかもかなりの速さで歌い上げる。かつてはマディ・メスプレ Mady Mesplé やナタリー・ドゥセ(デセイ)Natalie Dessay などがレパートリーとしていたこのアリアが、ドヴィエルによってさらに輝きを増している。 ニラカンタに新しい顔を持たせたステファン・ドゥグー 祭祀のニラカンタは、自らの権力維持のために娘のラクメを女神に仕立て上げ、彼女が外界と接触する機会を絶つ。このような人物設定は、台本からは読み取れるものの、実際の上演では、ラクメとジェラルドの悲恋の影で存在感がなくなっているのが。しかし、ステファン・ドゥグー Stéphane Degout はその威厳ある声と真実性で、この人物が物語の中核となっていることを雄弁に示した。ドゥグーのもつ存在感は圧倒的で、今回の上演では、まるでオペラ全体がラクメをめぐるニラカンタのジレンマを描いているかのようだ。 二人の侍従マリカとハージ 侍従であるマリカとハージは、今急上昇中のアンブロワジーヌ・ブレ Ambroisine Bré と、オペラ・コミック・アカデミー出身のフランソワ・ルジエ François Rougier が歌った。…
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ドメニコ・スカルラッティは500曲以上にのぼるソナタ* があまりにも有名なため、それ以外の曲はなかなか知る機会がない。サン・ミシェル・アン・ティエラッシュ古楽音楽祭(Festival de Saint-Michel en Thiérache) で、クラヴサン(チェンバロ)の巨匠ピエール・アンタイは、スカルラッティとヘンデルが対決したという有名な伝説をもとにプログラムを組み、一部をその場で曲を選びながら演奏した。 同じくクラヴサン奏者のベルトラン・キュイエは、彼が創設したアンサンブル「ル・キャラヴァンセライユ」を弾き振りして、スカルラッティの《スタバト・マーテル》を演奏。その前に《ミサ・ブレビス》(通称「マドリッドのミサ」)、ソナタK30、二重合唱による《テ・デウム》も披露した。 ***** ピエール・アンタイによるヘンデル・スカルラッティ「対決」プログラム ピエール・アンタイ Pierre Hantaï はすでにヘンデルとスカルラッティを「対決」させたCDを出しているが、このコンサートでは、そのコンセプトをベースに、大筋のプログラムに沿ってその場で弾く曲を決めながら進んでいった。クリアファイルに楽譜を入れて自分だけの曲集を作り(おそらくテーマごとにこのようなファイルがいくつもあるのだろう)、その中から選んでいく。 アンタイはリサイタルで解説を入れるのが常だが、この日のプログラムについて「イギリスで活躍したヨーロッパ人ヘンデルと、スペイン音楽を咀嚼したイタリア人スカルラッティ」を想定したと語った。会場で販売しているプログラムには「スカルラッティ、6つのソナタ;ヘンデル、序曲ニ短調、組曲ニ短調;スカルラッティ、2つのソナタ」としか印刷されておらず、詳細はその場にならないとわからないというわけだ。 まず、非常に対照的なヘンデルの序曲ホ長調とスカルラッティのソナタニ短調。次に、ヘンデルの曲を集めてアンタイが「組曲」に仕立て演奏した。当時の慣習に沿ったやり方だが、アンタイはよくリサイタルでこの方法を用いる。 最初のニ短調の序曲(オペラ Il Pastor Fido のフランス風序曲)に続いて、「組曲」を構成するそれぞれの曲もニ短調だ。全体的にどちらかというとこじんまりとした曲想の作品を並べてしっとりとまとめた。 最後にスカルラッティのソナタを5曲。明るい曲を集めたが、時折挿入される装飾音や、テンポ設定が、楽譜に書かれている以上の微妙な効果を誘う。アンタイはここに奏者としての解釈を明確に残している。英語や仏語の「奏者、演奏家」interpreter / interprèteという語には「解釈する者」という意味もあるのだが、それを体現したような演奏だ。その奏者=解釈者のイマジネーションが無限に広がり、たった数分間のそれぞれの曲が持つ歌うような旋律や軽快なリズムが融合してゆく。この日、アンタイは弾き慣れた楽器をわざわざ搬入してこのリサイタルを開いた。奏者としてのこだわりが垣間見られる、「対決」というにはあまりにも友好的な、あまりにも音楽的な、光に溢れた午後のリサイタルだった。 ベルトラン・キュイエが指揮するドメニコ・スカルラッティの宗教曲 ベルトラン・キュイエ Bertrand Cuiller は、この日のコンサートのメイン曲である《スタバト・マーテル》を最後に置いたが、実はこの曲は1715年頃にローマで作曲されている。つまり、スペインに定住する前の曲で、この日のプログラムで演奏された曲の中でもっとも早期の作品だ。(《テ・デウム》の作曲年が定かでないので、断言はできないが。)最初に演奏された「マドリッドのミサ」は、スペインの王立礼拝堂にある1754年の手稿楽譜に、編曲版があるという。全体的に厳格だが、「クレド」にはとくに作曲の手際の良さが感じられる。《テ・デウム》はドメニコ・スカルラッティの全作品の中で唯一、二重合唱から成る曲。単声の音楽が時折、祈りを強調するかのように、はたと止まるという劇的な効果が施されている。 さて、キュイエが使用した《スタバト・マーテル》の楽譜は、パリの北にあるかつてのロワイヨーモン修道院(現在は文化施設)のフランソワ・ラング音楽図書館所蔵の手稿である。10声と4つの器楽パートがさまざまな形をとって聖母の痛みを表現する。和声的にもポリフォニー的にもヴァラエティに富んだ音楽が次々と表れ、単調さとは対極にある曲だ。宗教曲という形を借りて、作曲技法や表現法、さらには劇作法までもを最大限に試みているようにも感じられるつくりとなっている。 はじめにゆったりと、しかし緊張した旋律で歌われる「Stabat mater dolorosa」が印象的だ。以後、静と動、暗と明、短調と長調などがほとんど交互にあらわれ、また、独唱、二重唱、三重唱、四重唱、合唱がさまざまに取り合わされて変化を生んでいる。最後の2曲を構成するフーガ、とくに「アーメン」はヴォカリーズのように軽快に進む。10人の歌手は、時には天から降りてくるように、また時には天に昇るように伸びる、空気と一体化するかのような透き通った声を調和させる。慎ましさと豪華さを同時に兼ね備えた見事なハーモニーだ。密につめていったかと思うと急に休止が入り、再びゆっくりと苦悩を表現したりする。キュイエは、そのようなコントラストを見事に創り出し、曲に深いドラマ性を与えている。 器楽パートは決して派手ではないが、単なる伴奏に終わっているわけでは決してなく、声楽パートと同じくらい存在感がある。ポジティフオルガンを演奏しながらル・キャラヴァンセライユ Le Caravansérail を指揮するキュイエは、まさに楽譜を隅から隅まで知り尽くしており、一つの音符もおろそかにしない。このような指揮者の行き届いた注意と、それを存分に表現しようとする歌手やミュージシャンたちの真摯なアプローチが相まって、会場の教会の空間いっぱいに美しい音楽が響き渡った。 最近アルモニア・ムンディから同曲を含むCDをリリースしている。録音も素晴らしいのでぜひ一聴をお勧めする。 * フランスでは、2018年のラジオ・フランス・モンペリエ=オクシタニー音楽祭で30人のクラヴサン奏者が555曲のソナタを演奏して話題になった。(全コンサートはラジオフランスのサイトで聴くことができる)
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サン・ミシェル・アン・ティエラッシュ古楽音楽祭 (Festival de Saint-Michel en Thiérache) のリポートの第一弾として、セバスティアン・ドゥロンの宗教音楽を集めたコンサートのレビューを、NOTEにアップしました。 6月19日、「ローマとスペインのヴィジョン ドメニコ・スカルラッティの世界 Visions romaines et espagnoles L’univers de Domenico Scarlatti」の総合テーマのもとに開催された3つのコンサートの一つ目で、朝11時から、スペインのアンサンブル、ラ・グランデ・チャページェ(ラ・グランド・シャペル La Grande Chapelle)によって行われた演奏会の模様です。 写真 © Robert Lefevre
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カミーユ・サン=サーンス Camille Saint-Saëns 没後100年の催しの一環で昨2021年秋に上演され、数都市を巡回している1幕オペラ《黄色い姫君 La Princesse jaune 》。同じく1幕もののビゼーの《ジャミレー Djamileh 》と合わせた2本立てだ。 リール郊外トゥルコワン市 Tourcoing のレイモン・ドゥヴォス市立劇場 Théâtre Municipal Raymond Devos で、アトリエ・リリック Atelier Lyrique de Tourcoing のプログラムの一環として、フランソワ=グザヴィエ・ロト François-Xavier Roth がレ・シエクル Les Siècles を指揮して5月末に3日にわたって上演された。 ***** 1870年代の上演背景 筆者が干渉したのは、最終日の5月22日。この稿では主に《黄色い姫君》をレビューするが、その前に作品の成立の背景を見ておこう。 二つの作品は、19世紀半ばから絵画などでとくに好んで取り上げられていたオリエンタリズム(東洋主義)の潮流の中で上演された。《黄色い姫君》の初演は1872年6月12日、《ジャミレー》は同年5月22日というから、ほとんど同時期に世に出された双子オペラと言っても良いだろう。サン=サーンスは、その前年に創設された国民音楽協会の共同発起人だが、1880年代半ば、同協会のコンサートで、外国人作曲家の作品を演奏できることが可決されると(それまではフランス人作品に限られていた)、決議に抗議して協会から離れたという経緯がある。このことから保守的な作曲家というイメージが強いが、実際は全く逆で、フランスで最初に交響詩を作曲したり、パイプオルガンを初めて交響曲に取り入れたり(交響曲ハ短調《オルガン付き》作品78、1886年)、近現代における古楽見直しのはしりとなるラモー全集(デュラン社、1895〜1918)の監修を行ったり、さらに晩年には世界で初めて映画音楽を作曲する(《ギーズ公の暗殺》、1908年)など、生涯にわたって新しいものを積極的に取り入れた。 《黄色い姫君》は、彼の好奇心を物語る作品の一つだ。ジャポニズムが徐々にモードとしてパリを席巻しつつある頃に、フランスで初めて日本を題材に作曲されたオペラが、この作品なのだ。初演から40年ほど経って、サン=サーンス自身、回想録で「日本が大流行して皆日本のことしか口にしなくなったので、日本を題材にした作品を書こうというアイデアがわいた」と語っている。初演された1872年は、プッチーニの《蝶々夫人》(1904)の30年以上前、メサジェの《お菊さん》(1893)の20年以上前である。彼の先進の気風がわかる。 当時さかんに見らた1幕もののオペラ・コミック(歌とセリフが交互に出てくるジャンル)というフォーマットの背景には、普仏戦争に敗北し国中が疲弊していたフランスで、制作費が安くてすむ短い作品を提供することで、手軽に文化を取り戻そうという意図があった。オペラ・コミックなので、専門のオペラ歌手を起用せずとも、俳優が歌の部分を歌って上演できるという利点もあった。 《黄色い姫君》 オランダ経由の日本美術 《黄色い姫君》は若いオランダ人のコルネリスと、その従姉妹でコルネリスに恋するレナの話。コルネリスは日本の屏風に描かれた女性に首ったけになり、女性に息を吹き込むことを夢見て、毎日錬金術まがいの実験をしている。その中で、魔法の薬が希望を叶えてくれるということを知る。薬を作って飲んだコルネリスは幻覚症状にとらわれ、室内は日本風に変わり屏風の女性が動き出したと錯覚する。その女性は実はレナだった。屏風の女性に熱烈な愛を告白するコルネリスの言葉を素直に捉えたレナだが、それが屏風の女性ミン…
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昨4月28日、フランス、レンヌ市で、英国在住の作曲家 藤倉大の尺八協奏曲が初演された。尺八は藤原道山。オーケストラはレミ・デュリュ指揮国立ブルターニュ管弦楽団。 ***** 海と航海にちなんだプログラム 今回の尺八協奏曲は、ブルターニュ出身の写真家で海中の植生などを撮影し続けているニコラ・フロック Nicolas Floc’h の写真を見たフェルドマンが、これらにしっくりくる音楽を探す中で、藤倉大に作曲を依頼したことが始まり。そして、「航海日誌 Journal de bord」と題して、海と航海にちなんだ作品を集めたプログラムを構成した。プログラムでは、藤倉の新作の他に、メンデルスゾーンの『静かな海と楽しい航海』、そのあと休憩を挟んでグレース・メアリー・ウィリアムス Grace Mary Williams (1906-1977) の『シースケッチ Sea sketches』と、ブルターニュ出身で海軍士官でもあったジャン・クラ Jean Cras (1879-1932) の『航海日誌 Journal de bord』。世界初演の尺八協奏曲はもとより、メンデルスゾーン以外はほとんど聴くことがない作品ばかりだ。 今回のコンサートテーマは海です Nicolas Floc’h氏の美しい海中写真とともにお楽しみください😊 Le thème de ce concert est « La mer » ! Ce « concerto de Shakuhachi »…
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今年2022年はモリエール生誕400年。政府主導の公式行事の他、私立劇場などが独自にプロデュースする演劇も多く、フランス全土の舞台で賑わいを見せている。 年頭から各地を巡回しているヴァンサン・タヴェルニエ Vincent Tavernier の演出の3作品もその一環で上演されており、3月末にはランス・オペラ Opéra de Reims にやってきた。そのうち『シチリア人、あるいは恋する画家 Le Sicilien ou l’Amour Peintre』と『強制結婚 Le Mariage forcé』を観た。3作目の『病は気から Le malade imaginaire』はランスでは上記2作の2週間ほど前に上演されていたが日程が合わず、4月に入ってからリール郊外のトゥルコワンで観た。 (注意!じっくり読みたい人向けの長文レヴューです。) ***** 『シチリア人、あるいは恋する画家 Le Sicilien ou l’Amour Peintre』、『強制結婚 Le Mariage forcé』、『病は気から Le malade imaginaire』の3作はいずれも、演劇はレ・マラン・プレジール劇団 Les Malins Plaisirs、オーケストラはエルヴェ・ニケ Hervé Niquet 率いるル・コンセール・スピリテュエル…
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2月の終わり、リール近郊のトゥルコワン Tourcoing で、パーセルの『フェアリークイーン The Faily Queen』(邦題『妖精の女王』)が3回にわたって上演された。昨年プログラムに組まれていたものが、新型コロナウィルスの影響で延期になっていたもの。セミオペラの特性を存分に生かした演出では、演劇部分とオペラ部分を対等に扱い、当時のエスプリを彷彿させる快心の作となった。 ***** シュールな演劇部分 このバージョンの特徴はまず、現代の英国を象徴する人物を登場させたシュールな演劇部分にあるだろう。ボリス・ジョンソン、サッチャー元首相、ダイアナ妃、エリザベス女王が、時代を超えて「共演」しているのだ。客席からだと本人かと見間違うほどそっくりなボリス・ジョンソンに扮するのはアラン・ビュエ Alain Buet。バロックオペラからオッフェンバックまで幅広いレパートリーを誇るベテランのバリトンだ。サッチャー元首相とダイアナ妃は、男性が女装。これは、当時重要な役割を担っていたトラヴェスティを現代に置き換えたようだ。そのジョンソン首相がなんとダイアナ妃に熱烈に求愛するという、シュールな世界が繰り広げられる。かつての仮面劇(マスク)にしたがって、本筋と並行してダンスをふんだんに見せる場をカットせずに上演しているのも特徴。英国のバロックダンサー兼コレグラファーのスティーヴン・プレイヤー Steven Player は、サッチャー役で踊りに踊る。青いスーツに身を包み(アリス・トゥーヴェ Alice Touvet による衣装が楽しい)、ティーカップとティーポットを忍ばせたバッグを離さず(暇があればティータイムになる)、オーケストラが舞曲を演奏するときはそれに合わせてホーンパイプはじめさまざまな踊りを次から次へと披露する。そのスタミナと耐久性には脱帽だ。もしかしたら彼が主役かと思うほどの活躍ぶりだった。女王陛下は帽子とお揃いの派手なピンクのスーツ姿で、そこかしこにお座りになられ、にこやかな笑みをたたえてほとんど無言でことの成り行きを見守っておられる。そんな中、一瞬、チャールズ王子が執拗に太鼓を叩く兵士のおもちゃとして登場。外から見た英国のクリシェをこれでもかと盛り込んでいるのに、全く陳腐に終わらないのは、演出家ジャン=フィリップ・デルソー Jean-Philippe Desrousseaux の力量だろう。 鬼才の演出家デルソー デルソーの鬼才は、このオペラの下敷きであるシェクスピアの『真夏の夜の夢』のセリフを引用し、これを見事に演出に溶け込ませている所にも表れている。コヴェントリー大聖堂の廃墟*(フランソワ=グザヴィエ・ギヌパン François-Xavier Guinnepin のセノグラフィーによる装置。ギヌパンは照明も担当)に、『真夏の夜の夢』の上演の練習にやってきた演劇団が、そこでくつろいでいたオックスフォードの女学生のグループに会い、演劇に参加するよう誘う。そして皆がおとぎの国で物語を繰り広げるという設定だ。劇の練習が次第に劇そのものになってゆくのだが、そのところどころにシェークスピアの箴言を散りばめ、パーセルのセミオペラとの強い関連性を提示している。その上でデルソーならではのアイデアを存分に発揮。彼が得意とするマリオネット劇で、「鉄の女」と渾名されていたサッチャーの人形が「敵」を叩きのめす場面もある。さまざまなアイデアで次から次へと繰り広げられるシーンに息つく暇もないが、動と静のバランスが絶妙で、見ていて全く息苦しくならない。演劇出身でジャンルを問わない、好奇心にあふれた根っからの劇場人間、ジャン=フィリップ・デルソーの面目躍如たる見事な舞台なのだ。 *コヴェントリー大聖堂は、第二次世界大戦でドイツ軍による空襲で破壊され廃墟となった。 役に入り込む歌手たち その舞台では、主に演劇部分は人間模様を、オペラ部分は神話の世界を語っているのだが、オペラを歌う歌手たちの、役に入り込む度合いがすごい。中でもソプラノのレイチェル・レッドモンド Rachel Redmond とバリトンのアラン・ビュエに耳が惹きつけられる。レイチェル・レッドモンドはレ・ザール・フロリサン Les Arts Florissants との共演が多く、このようなオペラへの出演は少々意外に思えたが、いざ蓋を開けてみると、彼女独特のピュアでよく通る声が見事な存在感を出し、他の声との兼ね合いでも素晴らしい効果をあげていた。アラン・ビュエは、最初にも書いた通り、バロックオペラであれオッフェンバックであれ歌曲であれ、幅広いレパートリーを誇り、とくにフランスものを歌わせれば右に出るものがいない大御所。演技も優れており、今回のパーセルでも、観客の期待のままの演奏・演技を披露してくれた。終演後のカーテンコールで指揮者のアレクシ・コッセンコ Alexis Kossenko…
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遅ればせながらNoteを始めました。 まずは、昨2月13日、ラ・スカラ・パリで行われた、タナ弦楽四重奏団 Quautor Tana によるフィリップ・グラス Philip Glass の新しい作品の初演 に関する記事を出しました。 日本語の記事は原則としてNoteに出すようにし、ここにはリンクを貼っていきます。
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ベルギー、リエージュの王立ワロニー・リエージュ・オペラ Opéra royal de Wallonie-Liègeは、1月末から2月初めにかけて、ウンベルト・ジョルダーノ Umberto Giordanoの『聖母月 Mese mariano』とジャコモ・プッチーニ Giaccomo Pucciniの『修道女アンジェリカ Suor Angelica』を二部作に見立て、5回にわたって上演した。指揮はオクサーナ・リーニフ Oksana Lyniv 。ラーラ・サンソーネ Lara Sansone の演出は台本の記述を忠実に守った、非常にクラシックな舞台だった。 ***** 今回の「二部作」の話題は、ほとんど上演されることのないジョルダーノの『聖母月』が演出付きで観られることと、指揮のオクサーナ・リーニフが初めてリエージュ・オペラに登場することだった。彼女は昨年(2021年)7月、バイロイト史上初の女性指揮者として、『さまよえるオランダ人』を振ったのでご存知の方も多いだろう。このリエージュ公演では、指揮よりも演出に注意が向かった。そこで、演出を中心に論じてみたい。 あらすじ 二つともあまり上演機会がない作品なので、まずあらすじから見てみよう。 『聖母月』の題名は日本語ではなぜか『マリアの唇』となっているが、その由来はよくわからない。イタリア語のMese mariano は「マリアの月」の意で、聖母祭がもたれる5月をさす。それはオペラの筋書きからも明らかだ。主人公のカルメーラは、かつて結婚前に夫とは別の男性との間にできた子供を、夫の強い意向でやむなく手放さねばならなかった。復活祭の日曜日に、ふと我が子に会いたくなり、子供が生活している修道院の孤児院にやってくる。しかしその我が子はまさにその日に亡くなっていた。修道院長は、子供は聖歌隊でマリア月のミサのために練習をしているので、会うことができないと面会を断る。カルメーラは次回こそは子供に会いたいと、心を引き裂かれる思いで修道院を後にする。 『修道女アンジェリカ』も、題名が示す通り、修道院が舞台だ。アンジェリカはかつて恋愛におち子供を産んでいた。その罪を償うためにという家族の意向によって修道院に入れられたアンジェリカの唯一の望みは、子供に会うことだった。ある日、高級貴族の叔母がやって来て、貞操なアンジェリカの妹が結婚するので、相続権を破棄する書類に署名をせよと迫る。その際アンジェリカは我が子の知らせを尋ねるが、叔母の沈黙から、子供は亡くなってしまったことを察する。彼女は絶望のあまり自殺を図るが、自死が深い罪の行為であることに気づき、聖母マリアの加護を祈る。天から贖罪の歌声が聴こえて幕が閉じる。 演出のスタンス 台本からも分かる通り、二つの作品は同じようなテーマを扱っており、二部作にするにはもってこいだ。作品では宗教の重圧があまりにも前面に押し出されていて、現代のヨーロッパ人の感覚には重すぎる。そこで、二つの選択が考えられる。台本に忠実に、衣装や舞台装置も書いてある通りにするものが一つ。これはわかりやすいかもしれないが、多くの人が感じていた逃げ場のない重さを強調することになる。もう一つは、個人の物語として内面の痛みを表現するもので、直接的な表現を避け抽象的なものにすることが多い。例えば修道院を白い壁で囲まれた広い空間にするなどである。こちらが一般的な傾向だ。しかしサンソーネは「台本と音楽をそのまま尊重」する演出で、修道院という環境を文字通りに表現することを選んだ。このリエージュ・オペラでの演出は、「どのようなスタンスを取り入れるか」を考える上で、大変に興味深い例を示していると思われる。 ラーラ・サンソーネの演出の考え方 彼女はプログラムに、今回の演出についての考え方を示す一文をあげている。その中から一部を抜粋してみよう。 「『修道女アンジェリカ』をひもといた時、かなり昔につくられたオペラに、どれだけ私たちの世代に語りかけるものがあるかということに驚きました。台本と音楽を読めば読むほど、他の修道女たちから受ける制約や悔恨をはるかに超えた力が、主人公の胸中の生きたいという願望によってふつふつと湧き出していることが理解できました。その力は、深い抑圧の重苦しい時代にあったあらゆる限界を超越したところで、湧き出ているのです。」 「『修道女アンジェリカ』では台本と音楽をありのままに尊重した演出をしたいと思い、〔中略〕修道女たちの着古された重い修道着と金色の光(1年に3日だけ修道院の回廊に入ってくる太陽の光)を通して、痛苦と蘇生の物語を表現しました。」 「『聖母月』はナポリにある古くからの伝統に深く関連した作品ですが、私は代々ナポリに住む家族の出自なので、ここに表されているサインや気分が手に取るように理解できます。ここでも、きれいなイメージからかけ離れた、ありのままのナポリに物語をおき、台本と音楽に忠実に演出しました。」…
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チェロのヴィクトル・ジュリアン=ラフェリエール Victor Julien-Lafférièreとピアノのアレクサンドル・カントロフ Alexandre Kantorow の初めてのデュオリサイタルは、二人の演奏家の類稀なる才能がとけ合って、「これぞ音楽だ」と叫びたくなるような、新しい年の幕開けにふさわしい素晴らしいコンサートとなった。 ***** シャンゼリゼ劇場で日曜日の朝11時から随時行われているシリーズ、Concerts du dimanche matin は、その名も「日曜朝のコンサート」。教会でのミサの時間であるこの時間帯にコンサートを定着させた立役者でもあるシリーズで、30年以上続いている。このデュオコンサートはもともと今年のシーズンプログラムにはなかったもので、急遽開催が決まった。その上、衛生パス(ワクチン接種、抗体検査陰性などの証明)が「ワクチン証明パス」(抗体検査陰性証明は無効)となり、一般に観客数の減少が予想されていたにも関わらず、会場は満員。人気のほどが伺える プログラムはサン=サーンスのチェロソナタ第2番と、フランスのヴァイオリンソナタのチェロ版。 サン=サーンスのチェロソナタは未完の第3番を含めて3曲あるが、どれもあまり知られていない。2番は1905年つまり70歳の時の作曲・出版で、高度な技巧が散りばめられた大曲だ。 ヴィクトル・ジュリアン=ラフェリエール は、一つ一つの音を丁寧に扱いつつ、スケールの大きな演奏でぐいぐいと引き込んでゆく。第一楽章でチェロが奏でた一音がピアノに引き継がれ伸びていく様子は、二人の音楽性がどれだけ近いものかを物語っているだけでなく、擦弦と打弦という全く異なる音の出し方がこんなにも融和するものだったのだと感じさせる力を持っている。第二楽章のスケルツォ変奏曲は有名なパガニーニの変奏曲がちらちらと顔を出すが、二人の演奏では深いドラマ性を引き出しているのが特徴。そのドラマ性は第三楽章「ロマンツァ」の中間部に引き継がれ、はじめに現れるふくよかな夢見るようなチェロのテーマと深い対照をなしている。第四楽章は演奏家のヴィルトゥオーソ性が光る。 続くフランクのソナタでは、第二楽章で急と緩の対比の幅が思いがけないほど非常に広く、軽いショックを受けた。しかしゆったりとした部分でも速い部分でも、見事な伸びがあり、一つ一つの音に生命が躍動している。つまり一音ともおろそかにされていないのだ。全体的に彼らのフランクには、ある意味で後期ロマン派的な濃厚さがあり、マーラーの響きを想起させる。そして、19世紀終わりの交響曲などによく見られるクロマティズムが明快に聴き取れるのだ。フランクの音楽が重厚なのは誰もが感じることであろうが、一作曲家の様式に止まらず、この時代の音楽に貫かれる雰囲気をこれだけよく表現しているのには感心する。 アンコールは2曲で、フォーレのソナタから緩徐楽章と、サン=サーンスのソナタ第2番のスケルツォ楽章を再演。これらも、もっと聴きたいと思わせる快演だった。 ジュリアン=ラフェリエールは懐の深い音色と常に上へ上へと伸びる柔軟性が魅力だ。アレクサンドル・カントロフのピアノは、ピアノパートだけを聴いても完結しているほど優れているが、チェロの音を十分に活かしつつもピアノを存分に聴かせる技は、故意に習得しようと思ってもできるものではないだろう。彼らそれぞれの演奏には明確な意志がある。これほどの才能が共演すると、ぶつかり合いの方が目立ってしまう場合も多々あるが、二人のアンサンブルは一糸乱れることがなく、これが初めての共演とは信じがたい(だた、デュオは初めてだが室内楽ではすでに共演している)。まだ若いこの二人の演奏家が、伝説的な巨匠と肩を並べる一流の演奏家であり、デュオでその才能を相殺するどころか増幅させているのを目の当たりにしたひと時だった。 「これぞ音楽だ。」その言葉以外何もなかった。 ***** 2022年1月9日11時 パリ、シャンゼリゼ劇場 カミーユ・サン=サーンス チェロとピアノのためのソナタ第2番へ長調作品123 セザール・フランク ヴァイオリンとピアノのためのソナタイ長調FWV8(チェロ編曲版) ヴィクトル・ジュリアン=ラフェリエール(チェロ) アレクサンドル・カントロフ(ピアノ) ルノー・キャプソン(vn)とのトリオ。2021年2月のグシュタード音楽祭にて。