昨10月26日、パリ・フィルハーモニー(philharmonie de Paris 以下、フィラルモニ)において、カールハインツ・シュトックハウゼン Karlheinz Stockhausen のオペラサイクル『光』から、『光からの木曜日』の第3幕が、秋のフェスティヴァル Festival d’automneの一環として上演された。この公演では、指揮者マキシム・パスカル Maxime Pascal のもと、ル・バルコン Le Balcon を中心に、パリ国立高等音楽院の学生を含む若手音楽家たちが一堂に会した特別なオーケストラが編成された。『木曜日の光』は1978年から1980年にかけて作曲され、当時は極めて実験的で前衛的な作品と位置付けられていた。しかし、今回の上演では、その先進性や新鮮な響きを今の時代にも通じるものとして再現し、観客を同時に現代と異次元に誘うかのような独創的な舞台空間が作り上げられた。
*****
日本でもオペラやオーケストラの指揮で知られるマキシム・パスカルは、現代音楽シーンにおいて独特の存在感を放っている。日本では「伝統的」な指揮者として広く知られていり彼だが、実は音響効果を活用した作品の演奏を専門とするアンサンブル「ル・バルコン」を、音響技師、ピアニスト、そして3人の作曲家とともに2008年に設立。フランスでは、20世紀の電子音楽を意欲的に紹介する異色の指揮者として評価されている。ちなみに、アンサンブル名「ル・バルコン」の由来は、ジャン・ジュネの戯曲『Le Balcon(バルコニー)』(1956年発表、1960年初演)に由来する。
マキシム・パスカルとル・バルコンによるオペラ・サイクル『光』の全曲上演
そんな「ル・バルコン」が取り組む大規模プロジェクトの一つが、カールハインツ・シュトックハウゼンによるオペラ・サイクル『光』の全曲上演だ。今回上演された『木曜日の光』第3幕は、1998年11月にオペラ・コミック劇場で初演されたもので、今回はその再演である。なお、第1幕と第2幕はコロナ禍の最中の2021年にフィラルモニで再演された。『木曜日の光』を皮切りに、サイクルは、以降、毎年1つの「曜日」が順次上演されている。その概要は以下の通り。
2018〜19年 オペラ・コミック劇場 『光からの木曜日』(1978〜1980年作曲)
2019年 パリ・フィラルモニ 『光からの土曜日』(1981〜1983年作曲)
2020年 パリ・フィラルモニ 『光からの火曜日』(1988〜1991年作曲)
2021年 パリ・フィラルモニ 『光からの木曜日』第1、2幕(1978〜1980年作曲)
2022年 リール・オペラ 『光からの金曜日』(1991〜1994年作曲)
2023年 パリ・フィラルモニ 『光からの日曜日』(1998〜2003年作曲)
2024年 パリ・フィラルモニ 『光からの木曜日』第3幕(1978〜1980年作曲)
2025年上演予定 パリ・フィラルモニ 『光からの月曜日』(1984〜1988年作曲)
2026年上演予定 場所未発表 『光からの水曜日』(1995〜1997年作曲)
『光』サイクル全曲の上演には約30時間を要し、現在あるオペラの中では最長を誇っている。物語の展開は明確な筋書きというよりも象徴的で示唆に富んだものであり、全編に通底するテーマは「音の可能性への果敢な挑戦」と言えるだろう。
新鮮な息吹で独自の世界が繰り広げられる演出
この音楽の革新性に見合った演出を実現するのは容易ではないが、『木曜日』の舞台は、奇才バンジャマン・ラザール Benjamin Lazare の手によって新鮮な息吹が吹き込まれている。特に一部の合唱メンバーは、観客席に紛れて座り、歌う場面になると立ち上がってその場で歌い出すというユニークな演出が施されている。衣装デザインは、作曲当時である1970年代風(デザイナー:アデリーヌ・カロン Adeline Caron)だが、どこか1950年代を思わせるレトロな雰囲気も漂わせている。ラザールはこの時代設定を得意としており、未知の時代背景に挑むよりも、自らの熟知する時代を最大限に活かして、舞台を鮮やかに作り上げたと言えまいか。
『光からの木曜日』の主要登場人物は、ミカエル、エヴァ、ルツィファ(仏名リュシフェールまたは英名ルシファー)の3人。これらはキリスト教にゆかりのある名前だが、シュトックハウゼンの作品では宗教色が薄められ、彼らは「宇宙の住人」または「天人」として描かれ、幻想的で寓話的な要素が強調されている。特に中心人物であるミカエルは、エヴァに恋をし、地球で音楽院の入学試験に挑んで合格。その後、彼を象徴する楽器トランペットが彼の世界を巡る旅を表現し、最終的に故郷であるシリウス星へ帰還するという、壮大な物語と現実的な要素が混在した独自の世界が展開される。
「三つ子」の主要人物
これら3人のキャラクターは、歌手、楽器奏者、ダンサーの3人一組で表現されるため、舞台上では常に同じ衣装を纏った3人が登場し、まるで三つ子のような一体感が演出されている。今回のキャストは、2018年のル・バルコンによる初演時とほぼ同じメンバーで、唯一ルツィファのダンサーが変更されている。ミカエル役を務めるテノールのサフィール・ベルール Safir Beloul は、その朗々と響く声が印象的。エヴァ役のソプラノ、エリーズ・ショーヴァン Elise Chauvin もまた力強い歌唱で観客を魅了した。ルツィファ役のバス、ダミアン・パス Damien Pass も含め、彼らは3役をこなす技術的な負担と体力的な挑戦に見事に応え、作品の個性的なコンセプトを自分のものとするために情熱を持って楽譜に向き合ったと感じられる。このような挑戦的な役柄に完全に入り込み、ただ1回の公演に全力を注いだ彼らの演奏・演技には、深い敬意を表したい。
楽器ソロ奏者も同様である。ミカエルのトランペット奏者アンリ・ドゥレジェ Henri Deléger は、天を突くような芯のある音色を響かせ、ルツィファのトロンボーン奏者マチュー・アダム Mathieu Adam は、音色を幾重にも変化させることで作品に奥行きを与えていた。また、エヴァのバセットホルン(クラリネットの一種)奏者イリス・ゼルドゥー Iris Zerdoud も、比較的珍しいこの楽器を自在に操り、楽曲に独特の響きを添えていた。さらに、時に体をひねるようなダンサーたちのパフォーマンスも圧巻であった。プログラムには振付家の名前が記載されていないが、2018年のオペラ・コミックでの公演時には「ダンス伝達」として名前が載っていた。これは、シュトックハウゼンのアイデアを伝える役割の人物ということだろうか。
舞台と客席に繰り広げられる大規模なオーケストラと合唱団
大規模なオーケストラは、平舞台(客席と同じレベル)と、舞台上に高く取り付けられた壇上に分かれている。ル・バルコンの他に、パリ国立高等音楽院とサン・ドニ県高等音楽セクションの学生、アンプロンプチュ・オーケストラの混合オケ。フランスではこういう特別なプロジェクトの際にレベルの高い学生を動員して彼らが実際に舞台を経験できるような体制が充実している。合唱団は「パリ青年合唱団」。これはパリの地方音楽院の声楽科の学生によって構成されるコーラスで、2002年創設。学生合唱団とはいえ、パリ管弦楽団のコンサートや有名歌手のリサイタルなどに出演しており、その実力はプロなみだ。
大規模なオーケストラは、平舞台(客席と同じレベル)と、舞台上に設置された高い壇上に分かれていた。編成には、ル・バルコンの他、パリ国立高等音楽院とサン・ドニ県高等音楽セクションの学生、アンプロンプチュ・オーケストラのメンバーが加わる混合オーケストラが組まれた。合唱団として登場した「パリ青年合唱団」は、パリ地方音楽院の声楽科の学生たちによって構成されており、2002年に創設された。学生合唱団ながら、パリ管弦楽団のコンサートや著名な歌手のリサイタルにも出演しており、その実力はプロと並ぶほどである。フランスではこうした特別なプロジェクトの際、レベルの高い学生を動員して質の高い本番での演奏を経験できる体制が整っている。学生中からプロとしての体験を積むことができるのだ。
精緻さと独創性を兼ね備えたマキシム・パスカルの大きな指揮動作
マキシム・パスカルの指揮は、大きなジェスチャーで要所を押さえている。舞台と客席に繰り広げられるオーケストラや合唱団員をまとめるためには、大きな指揮動作が必要なのは自明であるが、それだけでなく、彼の指揮は見応えがあり、パフォーマンスの一部として自然に舞台に溶け込んでいる。リアルタイムの演奏に加え、リアルタイムでの電子音楽やビデオ映像も含まれるため、すべての要素を統括して適切な指示を出す能力が求められる。パスカルはこれまでにもビデオと連携した電子音楽を数多く指揮してきており、シュトックハウゼンのオペラはまさに彼の得意分野といえる。精緻さと独創性を兼ね備えたスキルを要するこのような大作の全曲指揮は、まさにパスカルの野心と探究心を表すのに最適なプロジェクトといえるだろう。
充実感と一種の虚脱感
上演終了後、この夜フィラルモニにいた誰もが感じたのは、充実感と一種の虚脱感が入り交じった、何とも言えない感覚であった。会場のあちこちから感嘆のため息とともに聞こえた、「Quelle œuvre! Quelle Performance!(なんという作品!なんというパフォーマンス!)」という言葉がすべてを表しているように思えてならなかった。
ホールを出ると、トランペットの朗々とした音が広いインターバルでゆっくりと鳴り響き、まるでSF映画のワンシーン、宇宙船から降りる場面にいるかのような錯覚に襲われる。このように終演後の観客の見送り方についても、シュトックハウゼン自身が細かく指示を出していたという。
このような独創的な作品の上演を体験できるパリという街の文化の深さに、改めて敬意を感じた一夜であった。
写真は全て10月25日のゲネプロ時に撮影 © Denis Allard
『光からの木曜日』第3幕 いずれも2018年オペラ・コミック劇場での上演時のビデオ