2月の終わり、リール近郊のトゥルコワン Tourcoing で、パーセルの『フェアリークイーン The Faily Queen』(邦題『妖精の女王』)が3回にわたって上演された。昨年プログラムに組まれていたものが、新型コロナウィルスの影響で延期になっていたもの。セミオペラの特性を存分に生かした演出では、演劇部分とオペラ部分を対等に扱い、当時のエスプリを彷彿させる快心の作となった。 ***** シュールな演劇部分 このバージョンの特徴はまず、現代の英国を象徴する人物を登場させたシュールな演劇部分にあるだろう。ボリス・ジョンソン、サッチャー元首相、ダイアナ妃、エリザベス女王が、時代を超えて「共演」しているのだ。客席からだと本人かと見間違うほどそっくりなボリス・ジョンソンに扮するのはアラン・ビュエ Alain Buet。バロックオペラからオッフェンバックまで幅広いレパートリーを誇るベテランのバリトンだ。サッチャー元首相とダイアナ妃は、男性が女装。これは、当時重要な役割を担っていたトラヴェスティを現代に置き換えたようだ。そのジョンソン首相がなんとダイアナ妃に熱烈に求愛するという、シュールな世界が繰り広げられる。かつての仮面劇(マスク)にしたがって、本筋と並行してダンスをふんだんに見せる場をカットせずに上演しているのも特徴。英国のバロックダンサー兼コレグラファーのスティーヴン・プレイヤー Steven Player は、サッチャー役で踊りに踊る。青いスーツに身を包み(アリス・トゥーヴェ Alice Touvet による衣装が楽しい)、ティーカップとティーポットを忍ばせたバッグを離さず(暇があればティータイムになる)、オーケストラが舞曲を演奏するときはそれに合わせてホーンパイプはじめさまざまな踊りを次から次へと披露する。そのスタミナと耐久性には脱帽だ。もしかしたら彼が主役かと思うほどの活躍ぶりだった。女王陛下は帽子とお揃いの派手なピンクのスーツ姿で、そこかしこにお座りになられ、にこやかな笑みをたたえてほとんど無言でことの成り行きを見守っておられる。そんな中、一瞬、チャールズ王子が執拗に太鼓を叩く兵士のおもちゃとして登場。外から見た英国のクリシェをこれでもかと盛り込んでいるのに、全く陳腐に終わらないのは、演出家ジャン=フィリップ・デルソー Jean-Philippe Desrousseaux の力量だろう。 鬼才の演出家デルソー デルソーの鬼才は、このオペラの下敷きであるシェクスピアの『真夏の夜の夢』のセリフを引用し、これを見事に演出に溶け込ませている所にも表れている。コヴェントリー大聖堂の廃墟*(フランソワ=グザヴィエ・ギヌパン François-Xavier Guinnepin のセノグラフィーによる装置。ギヌパンは照明も担当)に、『真夏の夜の夢』の上演の練習にやってきた演劇団が、そこでくつろいでいたオックスフォードの女学生のグループに会い、演劇に参加するよう誘う。そして皆がおとぎの国で物語を繰り広げるという設定だ。劇の練習が次第に劇そのものになってゆくのだが、そのところどころにシェークスピアの箴言を散りばめ、パーセルのセミオペラとの強い関連性を提示している。その上でデルソーならではのアイデアを存分に発揮。彼が得意とするマリオネット劇で、「鉄の女」と渾名されていたサッチャーの人形が「敵」を叩きのめす場面もある。さまざまなアイデアで次から次へと繰り広げられるシーンに息つく暇もないが、動と静のバランスが絶妙で、見ていて全く息苦しくならない。演劇出身でジャンルを問わない、好奇心にあふれた根っからの劇場人間、ジャン=フィリップ・デルソーの面目躍如たる見事な舞台なのだ。 *コヴェントリー大聖堂は、第二次世界大戦でドイツ軍による空襲で破壊され廃墟となった。 役に入り込む歌手たち その舞台では、主に演劇部分は人間模様を、オペラ部分は神話の世界を語っているのだが、オペラを歌う歌手たちの、役に入り込む度合いがすごい。中でもソプラノのレイチェル・レッドモンド Rachel Redmond とバリトンのアラン・ビュエに耳が惹きつけられる。レイチェル・レッドモンドはレ・ザール・フロリサン Les Arts Florissants との共演が多く、このようなオペラへの出演は少々意外に思えたが、いざ蓋を開けてみると、彼女独特のピュアでよく通る声が見事な存在感を出し、他の声との兼ね合いでも素晴らしい効果をあげていた。アラン・ビュエは、最初にも書いた通り、バロックオペラであれオッフェンバックであれ歌曲であれ、幅広いレパートリーを誇り、とくにフランスものを歌わせれば右に出るものがいない大御所。演技も優れており、今回のパーセルでも、観客の期待のままの演奏・演技を披露してくれた。終演後のカーテンコールで指揮者のアレクシ・コッセンコ Alexis Kossenko…